今週は、この夏、秋田県の横手駅から山形県の新庄駅まで運転された臨時快速「風っこ夏休み奥羽本線号」の旅をご紹介しましょう。
奥羽本線のこの区間は、かつて、上野と秋田を結ぶ特急「つばさ」、青森行の寝台特急「あけぼの」、急行「津軽」などの優等列車が走る幹線鉄道でした。
けれども、山形新幹線が新庄まで開通してからは普通列車だけが走る閑散区間になってしまいました。
横手駅で発車を待つ風っこ号です。

この列車は国鉄時代から走る古い気動車キハ48を改造したトロッコ列車で、シーズン中の週末に東日本の各地を走っています。
横手からの呑み鉄の酒は秋田県由利本荘の「雪の茅舎(ゆきのぼうしゃ)です。

車両は、窓を取り外したトロッコ車両になっています。

横手駅で駅員さんたちが風っこ号を見送ってくれました。


その名の通り、車内には爽やかな風が吹き込んできます。

でも、このあと、夕立が降ったとき、ビニールカーテンを閉めると車内は蒸し風呂のようになってしまいました。
途中駅の湯沢で反対列車と交換です。

この駅は、かつて特急や急行が停車する主要駅でした。
横堀駅です。

あたりは、緑に囲まれています。
これは秋田県矢島の「芳春」。

このお酒も車内で飲み干しました。
及位と書いて、「のぞき」と読みます。

この駅は難読駅として有名です。ここから山形県に入ります。
木造の車庫が見えてくると、やがて、終点の新庄に到着です。

新庄駅からは、山形新幹線「つばさ号」が発車します。

。
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- 2023/09/27(水) 00:02:44|
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今週は、先週に引き続き、青森県の弘南鉄道弘南線に乗って小さな城下町黒石をご紹介します。

黒石駅のホームに列車が並んでいます。
これが、黒石駅です。
かつては駅前にもうひとつの黒石線黒石駅がありました。

黒石線は1984(昭和59)年に国鉄から弘南鉄道に移管されましたが、1998(平成10)年に廃止されてしまいました。
さて、黒石の町の散歩しましょう。
駅から歩いて10分足らずの中心部に「中町こみせ通り」という古い街並みの残る通りがあります。

これはかつて「松の湯」という銭湯だった建物を交流館として黒石の情報発信を行なう施設になっています。
松の湯の内部です。

いかにも昭和の銭湯といった佇まいでした。
冬は豪雪地帯のため、通りは雁木(がんぎ)という雪よけの屋根に囲まれています。

国の重要文化財に指定されている高橋家住宅です。

重厚な木造建築が、古き良き時代の日本を思い出させてくれます。

こちらは第三消防部屯所の火の見櫓です。

お昼には名物の黒石焼きそばをいただきました。

つゆをかけて食べる独特の焼きそばです。
黒石にゆかりのある4大音楽家像がありました。

ピアノの鍵盤をモチーフにした記念碑です。
こちらは「中村亀吉商店」。

「玉垂」というお酒の蔵元です。
上原呉服店も長い歴史がありそうです。

そして、こちらはもう一つの酒蔵「鳴海酒造」。

鳴海酒造の内部です。

こちらは「菊乃井」という銘柄でした。
こちらは国の名勝に指定されている「金平成園」です。

加藤家の住宅にある広大な庭園です。

邸宅の座敷から眺める庭園の風景に、心が落ち着きます。
この立派な茅葺き屋根の家は九戸家です。

こちらは国の指定有形文化財になっています。
こちらは旧佐藤酒造。

「初駒」というお酒の蔵元でしたが、残念ながら2008(平成20)年に廃業しました。その後、地元有志が修復して保存したものです。
おして、これが黒石城趾です。

1万石の小さな黒石藩の居城でした。
呑み鉄の酒は「玉垂」と「菊乃井」。

でも、ロングシートなので、車内で呑むのは遠慮しておきました。
正に古き良き日本が残された町、黒石。今度は雪の降る季節に訪れたいと思います。
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- 2023/09/20(水) 00:02:12|
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今週は青森県の津軽平野を走る弘南鉄道弘南線と、沿線にある田んぼアートをご紹介します。
ある夏の日、弘前駅で黒石行の電車が発車を待っていました。。

途中駅の新里(にさと)です。

新里駅の構内には、蒸気機関車が静態保存されています。

これは、かつて国鉄五能線を走っていた8620型(通称ハチロク)と呼ばれる大正時代生まれの蒸気機関車です。
新里~館田(たちた)間から見る岩木山(津軽富士)です。

稲の穂が、もうすぐ垂れてくる時期でいた。
館田で、上下線の列車が交換します。

これが館田駅です。

古い木造駅舎が残されていました。
こちらは平賀駅構内にある車庫です。

平賀(ひらか)駅は、途中の中心駅で、大きな農協の建物に駅が併設されています。

尾上高校前~田んぼアート間を走ります。

あたりは、のどかな田園風景が広がっています。。
田んぼアート駅に停車中の列車です。

この駅は、地元の田舎館村が日本で最初に始めた田んぼアートを見るために設置された駅。

駅近くの展望塔から眺めた「寅さん」の石のアートと、田んぼアートの脇を走る列車です。

田んぼアートは、ここ田舎館村が発祥の地。1993(平成5)年から始められました。
毎年7月中旬から8月下旬頃が見頃です。
弥生時代を表わした田んぼアートです。

品種の異なる稲を植えてアートを作るそうですが、この品種は食べてもおいしくないそうです。
また、次の列車がやって来ました。

田んぼアートの近くに小さな遊園地が有、豆汽車が走っていました。

こちらは田んぼアート駅近くにある田舎館村博物館です。

博物館には、この村の出身の第49代横綱に関する展示コーナーがありました。

撮影禁止でしたが、館長さんから特別許可をもらって撮影しました。
これは、お城の形をした田舎館村役場です。

田んぼアートの時期に運行される無料連絡バスで約10分のところにあり、屋上の展望台からもうひとつの田んぼアートを眺めることができます。

田んぼアートのデザインは、毎年異なります。
こちらは黒石駅構内にあった古い小さな機関車です。

おそらく二度と走ることはないでしょう。
これが終点の黒石駅です。

来週は、古い城下町、黒石の町の様子をご紹介します。
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- 2023/09/13(水) 00:00:51|
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今週は8月26日に開業した宇都宮ライトレールをご紹介しましょう。
この路線は栃木県の宇都宮駅東口~芳賀・高根沢工業団地間14.6キロを結ぶLRT(次世代型路面電車)で、新規の路面電車の開業は75年ぶりのことです。
宇都宮駅からの通路には開通を祝う広告幕が掲げられていました。

宇都宮駅東口に電車がやって来ました。

訪れたのは開業から4日目、多くの人で賑わっていました。

黄色い電車が発車を待っています。

宇都宮は雷が多いことから「雷都」とも呼ばれ、これが路線名につながり、また、車体も稲光のイメージで黄色に統一したそうです。
宇都宮駅東口~東宿郷間を走る電車です。

やがて、電車は市街地を抜け、田園風景の中を走ります。

平石付近では収穫の間近の稲の穂が頭を垂れていました。

平石電停にも、稲の穂が描かれていました。

平石に上り電車がやって来ました。

平石には車両基地と宇都宮ライトレールの本社があり、ここで運転士の交代があります。

清原地区市民センター前近くには、大きなカーブがあります。

清原地区市民センター前電停はバスに接続するターミナルになっており、待合室やトイレが設置されています。

これは待合室の内部にある案内板です。
車内のようです。

各停留所ではすべてのドアが開き、ICカードを持っていると、扉ごとに運賃を精算できるようになっています。
グリーンスタジアム前~ゆいの杜西間では、高架橋の上の専用軌道を走ります。


ゆいの杜西電停に宇都宮駅東口行がやって来ました。

かしの森公園~芳賀・高根沢工業団地間です。

広大な自動車工場の敷地内の植え込みの脇を走ると、終点まであと少し・・・

最低運賃は150円、始発から終点まで乗ると400円です。

終点の芳賀・高根沢工業団地電停につきました。

そして、夕方の宇都宮駅東口を発車する電車です。

夕陽の上から雷がなりそうな黒い雲が広がっていました。
これまで、クルマだけが頼りで、深刻な交通渋滞を招いていたという宇都宮市東部。
沿線には大規模な工業地帯や大学があり、今後、このエリアの発展に大きく寄与することでしょう。
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- 2023/09/06(水) 00:01:51|
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今週は山形県遊佐町にある、JR羽越本線吹浦(ふくら)駅とその周辺をご紹介しましょう。

吹浦駅は、山形県の北部にある普通列車しか停車しない小さな無人駅です。
秋田行の2両編成の普通列車が到着しました。

駅前には佐藤政養(まさやす)像が立っています。

この地の出身の彼は、幕末から明治初期にかけての蘭学者で、鉄道技術者としても、新橋~横浜間の陸蒸気など、黎明期の鉄道建設にも尽力しました。
吹浦付近からは出羽富士rとも呼ばれる鳥海山がきれいに見えます。

暑い夏、実りの秋はもうすぐです。
駅から東に20分ほど歩くと、丸池様と呼ばれる小さな湧水の池があります。

池の畔には小さな祠があり、ここは大物忌(おおものいみ)神社の境内の一部とされ、池は神の宿る神聖な場所なのです。

近くには牛渡川という美しい小さな川があります。

ここは「湧水の樹蔭路」と名付けられた散歩道で、川の底の藻がきれいに揺れているのが見えます。
その水は清らかで美しく、口に含んでみるとひんやりとした心地よさ・・・。

ところが、丸池様や牛渡川の近くでは蚊の大軍に襲われ、痒くてたまりませんでした。
訪れるなら蚊の多い真夏は避けた方がよさそうです。
こちらはが丸池様から1キロほど離れた駅の近くにある大物忌(おおものいみ)神社です。

御本殿は鳥海山頂にあるそうです。
さて、こちらは日本海の海岸にある十六羅漢岩です。

吹浦駅から西北に歩いて15分ほどの所にあります。
他の像から少し離れた場所に羅漢さまの頭だけが上を向いて横たわっていました。

この石仏群は、江戸時代末期に吹浦の海禅寺というお寺の住職が5年の歳月をかけてこの地に彫ったもので、1864(明治元)年に完成しました。

日本海の荒波で命を落とした漁師の霊の供養と海上安全を祈って作られたものです。
近くには、奥の細道の道中、この地を訪れた松尾芭蕉の句碑があります。

「あつみ山や吹浦かけて夕すずみ」の文字が刻まれています。
そして、海岸近くにある鳥海温泉の「あぽん西山」という日帰り入浴温泉で汗を流しました。

こちらは1978(昭和53)年に訪れた時の吹浦駅です。

当時は、長大編成の旧型客車が発着し、駅には売店も設けられていました。
国鉄時代の「DISCOVER JAPAN」のスタンプと入場券です。

吹浦駅の建物は現在も健在ですが、今はは静かな無人駅になっています。
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- 2023/08/30(水) 00:00:05|
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今週は山形県の奥羽本線(山形新幹線)天童駅と将棋の町、天童をご紹介します。
天童駅に山形行の普通列車がやって来ました。

奥羽本線のうち、福島~山形~新庄間は、東京からの新幹線が乗り入れるため、在来線でありながら線路の軌間が通常の在来線の狭軌(1067ミリ)より広い標準軌(1435ミリ)となっており、普通電車の車輪の幅もこの軌間にあわせています。
暑い夏の日に訪れた天童駅です。

駅前にあるポストの上には、将棋の町にちなんで将棋の駒が乗っていました。

駅舎の1階には将棋記念館があります。

これは有名な人間将棋を形取った展示です。

館内には、通常の駒数よりも多い、中将棋や大将棋などの珍しい駒や、将棋の歴史に関する資料、チェスなどの世界各国の将棋に類似する競技の駒などが展示されていましたが、これらは撮影禁止でした。
駅を出て、しばらく歩くと、このような老舗の洋服屋さんがありました。

さらに歩くと、仏向寺という、浄土宗の大きなお寺があり、境内には蝉の声が響いていました。

仏向寺から坂を登ると、大日堂という小さな古いお社がありました。

こちらはさらに丘の上に登った所にある建勲(たけいさお)神社です。

この神社は織田信長の末裔が天童の地を治めたことにちなんで信長を祭神としています。
この町で買った呑み鉄の酒は、天童の地酒「出羽桜」。

東京行の山形新幹線「つばさ」がやって来ました。

この地は「花の山形、紅葉の天童」と歌われるように、秋には紅葉の名所となる若松観音や、御苦楽園などの見所があるそうなので、また季節を変えて訪れてみたいと思っています。
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- 2023/08/23(水) 00:01:13|
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今週は山形県のかみのやま温泉駅と、城下町上山(かみのやま)をご紹介します。
上りの山形新幹線「つばさ」がかみのやま温泉駅に着きました。

山形新幹線は、秋田新幹線と並ぶ日本で2箇所だけのミニ新幹線で、奥羽本線の線路の幅を新幹線にあわせて改軌し、普通電車と共用の在来線の軌道の上を走ります。
これが、かみのやま温泉駅です。

1992(平成4)年、奥羽本線に山形新幹線が乗り入れを開始した時に上ノ山駅から改称されました。
駅の近くに「歓迎湯」という足湯がありました。

上山は、上山藩の城下町。

訪れたのは4月の末、お城のまわりには枝垂れ桜が咲いていました。

天守閣に登ると、上山の町と、蔵王連峰が見渡せます。

お城の近くにある上山総鎮守月岡神社です。

元禄時代の藩主、藤井利長公を祭神としています。
町には、4軒の武家屋敷が残されています。

これは森本家屋敷。
そして、こちらは三輪家庭園です。

三輪家の屋敷は内部に入ることができます。
こちらは山田家。

そして、こちらは曽我部家です。

ここは「かみのやま寺子屋」として市内小学生の学習支援を行なっています。
これらの4軒はいずれも300年以上前の江戸時代に建てられたものです。
市内には温泉旅館のほか、4軒の共同浴場があります。

帰りにその中のひとつ、二日町共同浴場で旅の汗を流しました。
この町で買った呑み鉄の酒は、山形県鶴岡市の「大山」。

「つばさ」の中でいただきました。
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- 2023/08/16(水) 00:01:14|
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今週は岩手県のJR東北本線平泉駅と、世界遺産の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)をご紹介します。
平泉は、1087(寛治元)年から百年以上にわたって奥州を勢力圏に置いた藤原家の都でした。
平泉駅に着いた下り盛岡行の列車です。

かつて、国鉄時代には、長大編成の青森行などの長距離列車や、上野発の急行列車も停車していましたが、今では一ノ関~盛岡間を折り返す2両編成の電車が走っているだけです。
これが、世界遺産「中尊寺」「毛越寺」への玄関口となる平泉駅です。

平泉駅から中尊寺バス停までで4分、歩くとおよそ20分かかります。

これはバス停から中尊寺へ向かう月見坂と呼ばれる杉並木です、
途中、東見物台と呼ばれる高台からは東北本線が見渡せます。

ちょうど、上り普通列車と、下りの貨物列車がやって来ました。
これが中尊寺の本堂です。

訪れたのは4月下旬、桜が満開でした。
中尊寺というと金色堂が有名ですが、境内にはほかにもたくさんのお堂があります。

これは観音堂。
こちらは峯薬師堂です。

眼病厄除けの仏様として知られており、又の名を願成就院といいます。
こちらは阿弥陀堂。

そして、弁財天堂です。

これが、有名な国宝・金色堂が内部に収められている現在の覆堂です。

内部にある金色堂は残念ながら撮影禁止です。
高さ8メートル、一辺が5.5メートルの小さなお堂で、金箔におおわれているため、その名があります。
中尊寺創建当時の姿を今に伝える建物で1124(天治元)年に建てられたものだそうです。
これは、旧覆堂の内部から見た風景です。

覆堂とは、金色堂を風雪から護るために建てられたお堂で、鎌倉時代の1288(正応元)年に建てられたと伝えられており1930(昭和5)年に行なわれた昭和の大修理の時まで、金色堂はこの中にありました。
奥の細道の旅の途中、平泉を訪れた松尾芭蕉の像がありました。

境内に佇む苔むしたお地蔵さまです。

いつから、この場所に鎮座しているのでしょうか。
中尊寺から、駅に近い毛越寺に歩きました。

毛越寺の近くにあった舞鶴が池のほとりには満開の桜が咲いていました。
さて、こちらは毛越寺の本堂です。

毛越寺は平安時代初期の850(嘉祥3)年、創建という天台宗別格本山のお寺です。
「特別史跡」「特別名勝」に指定されている浄土庭園です。

平安時代の優雅な美しさを今に伝える広大な庭園は、訪れる人の心を落ち着かせてくれます。

池の近くにある鐘楼です。

藤原三代の時代に栄えた奥州の都には、今は静かな時が流れています。
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- 2023/08/09(水) 00:02:09|
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今週は岡山県の伯備線・備中高梁(たかはし)駅と、備中松山の城下町をご紹介します。
この町は江戸時代まで、備中松山と呼ばれていましたが1869(明治2)年に、明治政府の太政官からの命により、「松山」から「高梁」に改めることとなったためです。これは、伊予(愛媛)の松山、武州の松山(現在の東松山)との混同を避けるため、この地を流れる高梁川にちなんで、備中高梁と呼ばれるようになりました。

高梁の「梁」は、「橋」の雅な書き方とされているとのことです。
備中高梁駅に着いた上り普通列車です。

伯備線の普通列車は黄色い塗装が標準色になっています。
これが備中高梁駅です。

立派な駅舎ですが、時間帯によっては駅員が不在になります。
これが、備中松山城です。

全国に12箇所しか残されていない現存天守(後から復元された天守ではなく、江戸時代以前から現存する天守)の1つです。
このお城は街の背後にそびえる標高480メートルの臥牛山にあり、駅から歩くと90分もかかります。
そのため、駅からの乗合タクシー(予約制)や、混雑日は途中の駐車場からの登城勢理バスで8合目に当たるふいご峠まで行くことが出来ます。

ふいご峠からは、このような急な坂道を歩いて登るしかお城に行く方法はありません。
やがて、緑の中に高い石垣とお城の土塀が見えてきました。

ふいご峠からおおよそ20分、ようやくお城の城門に着きました。

城門では、お城に住みつき、今では猫城主と言われる雄猫の「さんじゅうろう君」が出迎えてくれました。
お城から下山した後は武家屋敷通りを歩いてみました。

ここは折井家です。

江戸時代後期の天保年間に建てられたものです。

こちらは埴原(はいばら)家の座敷に飾られた甲冑です。

武家屋敷通りのすぐ近くを伯備線が通っています。

ちょうど、新見行の下り普通列車が通過していきました。
こちらは安国頼久禅寺です。

このお寺は足利尊氏が1339(暦応2)年に建立したお寺です。

頼久寺の庭園は国の指定名勝となっています。

小堀遠州の作による枯山水庭園です。
近くの踏切を岡山と出雲市を結ぶ特急「やくも」が通過しました。

この列車は国鉄時代の1982(昭和57)年から走る振り子式381系ですが、来年3月以降、順次、新型車両に置換される予定です。
踏切を渡った所にあったのが、高梁基督教会堂です。

1889(明治22)年に建てられたものです。
そして、その隣にあるのが、旧高梁尋常高等小学校の校舎を利用した郷土資料館です。

クラシックな建物の内部には、地元の貴重な資料がぎっしり。

かつて、備中高梁駅に掲げられていた駅名票もありました。

この駅名票が掲げられていた当時、1975(昭和50)年に訪れた時の備中高梁駅です。

この時、伯備線は非電化で、その直前まで蒸気機関車が貨物列車を牽引していました。
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- 2023/08/02(水) 00:01:11|
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今週は神奈川県の東海道本線平塚駅周辺と、夏の2つのお祭りをご紹介します。
東海道本線の下り列車は相模川を渡ると、まもなく平塚に着きます。

東京駅からおよそ1時間、平塚止まりの下り列車が多く設定されています。

その先に行くいくつかの列車も後ろ5両をこの駅で切り離します。
これが北口にある駅ビル「ラスカ」です。

1973(昭和43)年に完成したこのビルは、日本で最初の国鉄出資の駅ビルです。
平塚は、江戸時代には東海道の7番目の宿場町でした。

これは駅の北西に位置する江戸側の入口「江戸見附」です。
こちらは、晩年を平塚で過した江戸時代の文豪、高山樗牛(ちょぎゅう)の石碑です。

駅の南側の住宅街にある小さな公園の一角にひっそりと建っています。
さて、平塚といえば、7月上旬に開催される七夕祭りが全国的に有名です。

これは、戦後、仙台の七夕を模して1951(昭和26)年から始まりました。
地元のサッカーJリーグ、湘南ベルマーレのメンバーを描いた飾りもありました。

駅の北口一帯にある会場は多くの人たちであふれます。

七夕飾りは夜になると一層、鮮やかになります。

駅のコンコースも七夕の見物客で混雑していました。

さて、こちらは駅の南東にある三嶋神社です。

七夕祭りが終わった翌週に、この三嶋神社の例大祭「須賀の祭り」が行なわれます。
須賀とは昔からの平塚の漁港で、豊漁豊作を祈願する祭りとして、江戸時代から行なわれている伝統行事です。

小さな地元のお祭りといった風情ですが、その歴史は七夕祭りより、はるかに古いのです。

三嶋神社と平塚海岸の間を、大小8基の御神輿が2日間にわたって練り歩きます。

町には大漁旗が揺れていました。
大通りでは、町内ごとの子供踊りのパレードがありました。

こちらは、快晴の日の平塚海岸の夕景です。

なんとも美しい富士山のシルエットを見ることができました。
このような風景は空気の澄んだ冬の日にしばしば見ることができます。
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- 2023/07/26(水) 00:01:15|
- 関東
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今週は東海道本線・新蒲原駅と旧東海道蒲原宿跡をご紹介します。

JR新蒲原駅は、静岡県の富士と清水の間にある普通列車しか停車しない小さな駅です。

駅前にある「さくら丸」は、桜エビ漁発祥100年を記念して設置されたモニュメントです。
桜エビ漁は、近くの由比の鰺漁の漁師が1894(明治27)年に偶然、多くの桜エビを獲ったことから始まったそうです。
蒲原は江戸時代の東海道五十三次のお江戸日本橋から数えて十五番目の宿場町でした。

駅の北側には旧東海道の宿場町の面影を残す街並みが残されています。

これは蒲原本陣跡です。

大名宿とも呼ばれ、主に参勤交代の時の大名などの貴人の宿として使われていました。
これは佐藤家のなまこ壁と塗り家造りの家で。元は「佐野家」という商家でした。

こちらは和泉屋という旅籠で天保年間(1830年代)の建物です。

こちらは味噌や醤油屋を営んでいた商家の志田家です。

国の登録有形文化財に指定されています。
これは総ケヤキ造りの磯辺家です。

明治時代の建物です。
こちらは大正時代のモダンな建物五十嵐歯科医院です。

こんな土蔵もありました。

近くには八坂神社という古いお社もありました。

八坂神社って全国にいくつあるのでしょうね。
駅前には安藤広重の東海道五十三次の絵のタイルが並んでいました。

これはsの中のひとつ「蒲原夜の雪」です。
これは東海道の起点、江戸の日本橋です。

そして、こちらは「京師」。

終点の京都の三条大橋が描かれています。
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- 2023/07/19(水) 00:01:31|
- 東海
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今週は静岡県のJR身延線富士宮駅と冨士山本宮浅間(せんげん)大社をご紹介します。
富士宮駅に着いた甲府行の普通列車です。

ひと駅先の西富士宮駅からは単線となり、列車の運転本数が大幅に少なくなります。
富士宮駅です。

かつてはこの駅に宗教団体の団体列車専用改札口がありました。
この町は富士山の麓にあります。

天気が良ければ、町のどこからでも霊峰を望むことができます。
冨士山本宮浅間大社へは駅から歩いて10分です。

この神社は全国に1300あまりある浅間神社の総本宮です。
堂々とした造りの楼門です。

拝殿です。

徳川家康公の寄贈によるものです。
境内にある湧玉池は、富士山の雪解け水が溶岩の間から湧き出た湧水から湧出した池で、国の特別天然記念物に指定されています。

富士宮と言えば、焼きそばが有名ですね。

油かすや鯖や鰯の削り粉をかけて食べるのが特徴で、市内のあちこちに富士宮やきそばが食べられる店があります。
駅のホームからも富士山が見えました。

富士宮から甲府行の特急「ふじかわ」に乗りました。
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- 2023/07/12(水) 00:01:36|
- 東海
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今週は広島市を南北に走る広島新交通アストラムラインをご紹介します。
アストラムラインは、広島市の中心部本通駅と広域公園前駅を結ぶ18.4キロの新交通システムです。
起点の本通駅です。

本通駅から1.7キロ先の新白島駅まで地下線になっています。

新白島駅です。

この駅ではJR山陽本線と接続しています。
新白島を発車すると、地上に顔を出します。

JR可部線と接続する大町駅を発車すると、大きくカーブして、やがて毘沙門台駅に着きます。

毘沙門台に停車中の本通行列車です。

毘沙門台~安東(やすひがし)間です。

季節は秋でした。
長楽寺駅構内には、車庫への引込線があります。

長楽寺~伴(とも)間を走る列車です。

長楽寺駅の近くにはヌマジ交通ミュージアム(広島市交通科学館)があります。

終点の広域公園前駅です。

駅前に広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)があります。

ビッグアーチは、サッカーJリーグサンフレッチェ広島のホームグラウンドです。

この先、広域公園前駅からJR西広島駅まで(7.1キロ)の区間は、2028年ごろの延伸が決まっています。
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- 2023/07/05(水) 00:00:34|
- 中国(山陰山陽)
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今週は、来年4月末で廃止が決まった広島市のスカイレールみどり坂線をご紹介します。
スカイレール(広島短距離交通瀬野線)は1998(平成10)年に開業したJR山陽本線瀬野駅に隣接するみどり口駅とみどり中央を結ぶ全長1.3キロの小さな懸垂式モノレールです。
これが始発駅のみどり口駅です。

みどり口駅は山陽本線広島駅から6駅目、広島市の東端にある瀬野駅と隣接しています。

みどり口に到着するスカイレールの車両です。

座席定員は8名ですが、最大37人まで乗ることができます。

瀬野駅のホームから見たスカイレールです。

高台に造成された住宅地「スカイレールタウンみどり坂」に向かって登っていきます。
唯一の途中駅、みどり中街です。

みどり中街駅の発車時刻表です。

日中は15分おきですが、朝夕の通勤通学時間帯には、かなりの本数が運転されています。
それでも、朝にはかなり混雑するらしく、臨時増発便のお知らせが掲示してありました。

まるでジェットコースターのような斜度15度の急な坂を登っていきます。

眼下に建ち並ぶ住宅街を見下ろしながら走ります。

来年、桜の花が散ると、ほどなく廃止されます。

みどり口を発車してからわずか5分で、終点のみどり中央に着きます。

これが終点のみどり中央駅です。

この住宅地に住む住民にとっては欠かせぬ通勤通学の足でしたが、設備の維持管理コストがかさむため、今年の12月に廃止されることになり、代替交通機関として電気自動車による路線バスが運行されることになりました。
ところが、電気バスの車庫の整備に時間がかかっているため、廃止時期を4ヶ月遅らせることになったそうです。
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- 2023/06/28(水) 00:01:16|
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今週は広島市内の中心部を走る広島電鉄市内線をご紹介します。
市内線は、正確には、本線、宇品(うじな)線、江波(えば)線、横川線、皆実(みなみ)線、白島(白島)線の6路線9系統18.9キロの路線網を持っています。
広島駅前を発車する2系統宮島口行の電車です。

この電車は広電西広島までは路面電車として本線の軌道上を走り、西広島から先は、専用軌道の宮島線(16.1キロ)を日本三景の宮島の入口、広電宮島口までを結びます。

広島駅前を発車すると、すぐに猿猴橋(えんこうばし)を渡ります。
4月上旬に訪れた時の猿猴橋です。

猿候川の川辺に桜がきれいに咲いていました。
的場町で、本線と宇品線(5系統)が分かれます。

こちらは宇品線の海岸通~元宇品口間を走る電車です。

こちらも元宇品口です。

かつて、京都市電だった1900形がやって来ました。
元宇品口にやって来たのはカープ電車です。

もうすぐ終点の広島港に着きます。

宇品線の終点、広島港(宇品)です。

広島港からは、江田島、似島、能美島など近郊の島々のほか、宮島や四国の松山までの船も出ています。

こちらは皆実線の御幸橋付近です。

広島電鉄の電停は、大抵、こんな感じです。

こちらは市内中心部の八丁堀付近を行く3連の電車です。

八丁堀から3駅だけの白島線(9系統)が分岐しています。

こちらは縮景園前の白島線の電車です。
電停から縮景園前電停から縮景園までは歩いて2分ほど。

1620(元和6)年に広島藩浅野家の庭園として茶人上田宗箇が作庭した庭園です。
こちらはは白島線の終点、白島です。

白島線(9系統)だけは他の路線に乗り入れず、八丁堀~白島間を折り返し運転をしています。
紙屋町西にやってきた7系統広電前行です。

広島城へは紙屋町西電停からあるいて15分ほどかかります。

こちらは原爆ドーム付近を走るドイツ製の5000形グリーンムーバーという車両です。

原爆ドームにはいつも平和を祈念する人々が集います。

二度と核兵器が使われることがありませんように。
土橋電停で江波線(8系統)の電車が本線から分岐します。

こちらは横川一丁目電停の横川線(7系統)の電車です。

広島と言えばお好み焼きですね。

この日にランチは横川付近で「ふわとろお好み焼き」をいただきました。

オムレツに焼きそばが入った一品です。
横川線の終点、横川駅電停です。

ここには7系統広電本社前行と、8系統江波行が乗り入れています。
市内線は、どの路線も運転本数が多く、広島市民の重要な足となっています。
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- 2023/06/21(水) 00:00:02|
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今週は、日本三景のひとつに数えられる安芸の宮島をご紹介します。
広島市内から列車で宮島に向かうのはふたつのルートがあります。
そのひとつがJR山陽本線で宮島口駅で下車して船に乗換えるルート。
これがJR宮島口駅です。

これは「みせん丸」です。宮島口駅から徒歩5分ほどの場所にJR西日本系の宮島連絡船の桟橋があります。

かつては国鉄の鉄道連絡船でしたが、民営化後はJR西日本に移管されたのち、2009(平成21)年に子会社のJR西日本フェリーによる運行となりました。ですが、国鉄時代から青春18きっぷ、JAPAN RAILPASSなどのJRの企画乗車券で乗船することができます。
一方、こちらは広島電鉄の広電宮島口駅です。

この駅は桟橋の目の前にあり、広島電鉄系の宮島松大汽船にに接続しています。
これが、宮島口桟橋に停泊中の宮島松大汽船のフェリー「安芸」です。

つまり、宮島口から宮島間は、JR系と広島電鉄系の2社のフェリーが交互に発着しているのです。
宮島が近づいてくると、世界遺産・厳島神社の大鳥居が見えてきます。

JRの連絡船は、日中の宮島行の便はサービスとしてこの大鳥居に近づいて運航します。
これが、JRと松大汽船共通の宮島桟橋ターミナルです。宮島口からの所要時間は約10分です。

西側からJRが、東側から宮島松大汽船が発着します。
宮島に上陸するとあちこちで野生のニホンジカの姿を見ることができます。

多くは山に住んでいるようですが、人の住むエリアにもしばしばやって来ます。
桟橋から厳島神社に向かう参道には多くの店が建ち並び、観光客で賑わっています。

厳島神社の本殿と平舞台です。

そして、これは本殿に向かう廻廊です。

廻廊の近くの桜がきれいに咲いていました。

丘の上にそびえる五重塔です。

青い空に満開の桜と五重塔、いかにも日本的な風景ですね。
こちらは厳島神社に隣接する大願寺です。

桟橋から歩いておよそ15分(神社の近くから無料連絡バスもあります)、宮島ロープウエイの紅葉谷駅です。

ここから2つのロープウエイを乗り継いで、宮島出一番高い山、弥山(みせん)を目指しましょう。
まずは紅葉山駅から途中の榧谷(かやたに)駅への紅葉谷線に乗ります。

これは1分おきに22台の8人乗りのゴンドラが延長1.1キロ、標高差288メートルの区間を次々と進む循環式と呼ばれる方式のロープウエイです。
榧谷駅で獅子岩線に乗り換えです。

こちらは30人乗りの大型で、2台のゴンドラが、中間地点ですれ違う交走式と呼ばれる方式です。

こちらは延長0.5キロ、標高差62メートルを3分半で結びます。
終点の獅子岩駅です。

獅子岩駅付近から永編める獅子岩線のロープウエイと、遠くに望む瀬戸内海の風景です。

こちらは獅子岩から見た島々です。

手前の左が絵ノ島、右が大奈佐美島(おなさびじま)、奥の左は似島(にのしま)、右は江田島で、遠くに見えるのは本州の広島、呉方面です。
獅子岩駅から弥山(みせん)頂上までは歩いて30分ほどかかります。
途中の山の中腹にある弥山本堂です。

この寺は弘法大師がここで100日間の修行を行なったと伝えられています。
本堂の目の前にある霊火堂(手前)と三鬼堂(右奥)です。

弥山にはこのようなお堂がいくつか並んでいます。
頂上近くにあるくぐり岩です。

そして、弥山の頂上から眺めた風景です。

桜の木にカラスが一羽、とまっていました。
弥山から下り、厳島神社の大鳥居が夕陽を浴びていました。

コロナ騒ぎが一段落した今、宮島は世界各国から訪れた観光客で賑わっていました。
広島電鉄の900円の一日乗車乗船券を買うと、広島駅~広電宮島口間など広島電鉄全線と、宮島松大フェリーが一日乗り放題になるほか、宮島ロープウエイも往復2000円のところを1500円に割引になります。
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- 2023/06/14(水) 00:04:36|
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今週は2005(平成17)年3月末をもって廃止された石川県の能登線の廃線跡の現在のようすをご紹介します。
その前に去る5月5日にかつて、能登線が走っていた能登半島の珠洲市や能登町で発生した震度6強の地震で、被害を受けられた方々にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復興をお祈り致します。
能登線は、かつて、石川県能登半島の穴水~蛸島間61.0キロを結んでいました。
国鉄能登線は1959(昭和34)年に穴水~鵜川間が開通。その後、徐々に路線を延伸し、蛸島まで全線開業したのは1964(昭和39)年のことでした。
しかしながら利用者の減少により、全線開通からわずか4年後には国鉄の廃止対象線区となり、国鉄民営化の翌年の1988(昭和63)年に第三セクターの「のと鉄道」として再出発しました。
のと鉄道はその後、七尾線の七尾~穴水~輪島間をJRから移管し、一時は能登線とあわせて114.5キロもの路線を有していました。けれども、七尾線の穴水~輪島間20.4キロは2001(平成13)年に廃止。さらに、その4年後に能登線全線が廃止され、現在は七尾~穴水間の33.1キロを残すのみとなっています。
さて、これは穴水駅に静態保存されているNT800系気動車です。

1988(昭和63)年から2002(平成14)年まで、急行「能登路」号として能登半島を走っていましたが、2002()平成14年に能登路号が廃止され、能登線の廃止と同時に廃車となったものです。
こちらは穴水の次の駅だった中居駅跡です。

のと鉄道の駅は、多くの駅が桜の木に囲まれており、列車が来なくなった後も、毎年春になると花を咲かせます。
こちらは古君~鵜川間に残る鉄橋です。

そして、こちらは七見(しちみ)付近の築堤跡です。

七見駅は、のと鉄道に移管されてから設置された駅でした。

現在、駅の待合室は、バス路線の待合室に転用されています。
七見~矢波間のガード跡です。

線路はすでに撤去されていました。
矢波駅跡です。

ホームに掲げられた「奥能登の未来を築くのと鉄道」との古びた看板が虚しさを感じさせてくれます。
波並(はなみ)駅跡です。花見ができる駅でした。

このあたりは、ずっと海に面しています。
かつて、能登線の主要駅で、のと鉄道の本社があった宇出津(うしつ)駅跡は鉄道緑地広場になっています。

宇出津駅跡には能登線の歴史が掲げられていました。

宇出津付近のトンネルです。

このトンネルを列車が走ることは二度とありません。
こちらは高架線上にある恋路駅跡です。

国鉄時代は夏季限定の仮乗降場でしたが、三セク化時に正式な駅となりました。
駅名から無人駅であるにもかかわらず、入場券が人気となり、能登線を走る急行列車も「能登恋路号」と名付けられました。
廃線後、地元の宗玄酒造が付近の線路を買い取り、2013(平成25)年から「奥のとトロッコ鉄道」として足こぎ式トロッコを走らせていましたが、コロナ騒動以来、休止となっています。
南黒丸~鵜飼間に残る橋梁跡です。

こちらは鵜飼駅跡です。国鉄時代は能登鵜飼と呼ばれていました。

現在はバス待合所とコミュニケーション施設などとして利用されています。
能登鵜飼駅のホーム跡です。

列車交換のできる駅で、廃線時まで委託駅員が勤務し、レンタサイクルを借りることもできましした。
こちらは上戸(うえど)駅跡です。

この駅にも桜の木があり、線路跡に枝がおおいかぶさっていました。
こちらは珠洲飯田駅跡に放置されたワム38000形貨車です。

これが、現役時代と変わらぬ姿で残る珠洲飯田駅です。

この駅も三セク化後に飯田駅に改称されましたが、駅名表示は珠洲飯田のままでした。
珠洲飯田の駅舎内に残る1978(昭和53)年当時の時刻表です。

上り列車は8本の内、6本が金沢までの直通列車でした。
こちらは沿線主要駅だった珠洲駅のホーム跡が残っています。

駅舎があった場所は、現在は道の駅になっています。
呑み鉄の酒は、道の駅で買った珠洲の地酒「能登桜」です。

でも、この時はレンタカーだったので、この場では呑まず、後日、能登鹿島駅で花見をしながら呑みました。
次の駅、正院(しょういん)です。

この駅も現役時代と同じ姿で残っています。
この駅にも桜が咲いていました。

線路が合った場所には「奥能登国際芸術祭」の時に、酒蔵のタンクを植木鉢に見立てて作られた作品が並んでいました。
これは、正院~蛸島間の桜咲く築堤を走る列車に見えますが、よく見るとボロボロに朽ち果てそうになったNT100形気動車でした。

近づいてみるとまるで幽霊列車です。

これは、能登線廃止後、NPO法人が一時、動態保存し、2008(平成20)年ごろまで蛸島駅付近を走行していたものの、その後、放置され、朽ち果てそうな姿をさらしているのです。
蛸島の駅舎も現役時代と同じ状態で残っていました。

この駅は私が1981(昭和56)年に国鉄全線走破を達成した駅だけに、感無量です。
このホームに、金沢から乗った普通列車で到着し、全線走破を達成したのは42年前のこと。

この終着駅に列車がやって来ることは二度とありません。

なお、能登半島の鉄道は、特に思い入れが強いため、以下の通りこれまで何度もこのブログに載せています。
↓下記↓のタイトルをクリックしていただくと、それぞれの記事にリンクします。
【
ありし日の、のと鉄道能登線と奥能登の情景】
【今はなき国鉄能登線の風景】【のと鉄道七尾線・輪島~穴水間の現役時代と廃線跡】【のと鉄道①「のと里山里海号」】【のと鉄道②普通列車の旅】
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- 2023/06/07(水) 00:02:02|
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今週は桜満開の、石川県を走るのと鉄道をご紹介します。
のと鉄道や前身の国鉄七尾線・能登線については、過去にこのブログの中で何度かご紹介していますが、この路線は、能登半島のJR七尾線、七尾~穴水間を継承した第三セクター鉄道です。

元々は1988(昭和63)年に穴水~蛸島間の能登線を継承し、3年後、七尾~穴水~輪島間の七尾線を第2種鉄道事業者(線路はJR西日本に帰属)として、運行を始めました。
しかしながら、利用者の低迷により、穴水~輪島間は2001(平成13)年に廃止。続いて、能登線穴水~蛸島間の全区間が廃止され、現在は七尾~穴水間33.1キロの路線となっています。
七尾駅で発車を待つ穴水行の列車です。

七尾と次の和倉温泉間は、JR西日本との共用区間となっており、特急列車(和倉温泉止まり)はJRの車両、普通列車はすべてのと鉄道の車両で運転されています。

和倉温泉駅は無人駅ですが、JRの管轄なので、駅名票はJR西日本の形式です。
田鶴浜駅にやって来た上り七尾行の列車です。

のと鉄道の駅は、どこも桜の木に囲まれています。
笠師保(かさしほ)駅です。

のと鉄道の途中駅は、このように国鉄時代からの駅舎が残されています。

能登中島に到着した七尾行の列車です。

反対列車の待ち合わせのため、能登中島でしばらく停車しました。

能登中島駅構内には、国鉄時代の郵便車「オユ10」が保存されています。

以前は能登線の甲(かぶと)駅に留置されていましたが、能登線の廃止後、この駅に移動しました。
郵便車の内部です。

車内で、郵便物の仕分け作業が行なわれていました。
能登中島~西岸間を、菜の花と桜の花に囲まれながら走ります。

このようなラッピング車両も走っています。

西岸付近を行く穴水行の下り列車です。

西岸駅近くにある明治の館「室木家」住宅です。

これは土地の豪農のお屋敷で、江戸時代から廻船問屋や酒造りを営んでいました。
室木家の裏の築堤を走る七尾行の列車です。

こちらは、西岸~能登鹿島間で、七尾湾を眺めながら走る下り列車です。

内海の七尾湾はいつもおだやかな表情を見せてくれます。

能登島への「ツインブリッジのと」の向こうに、立山連峰が見えました。

こちらは上り列車です。
能登鹿島駅に下り列車が到着しました。

能登さくら駅の異名があり、桜の時期には多くの観光客が訪れます。

これは、能登鹿島に停車中の観光列車「里山里海号」です。
これが、桜に囲まれた能登鹿島駅です。

能登鹿島駅に七尾行がやって来ました。

こちらは晴れた日曜日の能登鹿島駅です。

ホームに人があふれていますが、大半がクルマでやって来た花見客です。

この駅は無人駅ですが、桜の時期だけは入場料金を徴収したらいいのにと思います。
この駅のベンチで呑んだ呑み鉄の酒はその名も「能登桜」。

能登半島の先端、蛸島の地酒です。
能登鹿島駅から眺めた七尾湾です。

こんな風景が見られるのは4月上旬の10日間ほどだけ・・・。
終点の穴水です。

かつては、輪島方面への七尾線と、蛸島方面への能登線が分岐していましたが、いずれも廃線になったため、今はこの駅が終着駅です。

来週は、今はなき、能登線の廃線跡をご紹介します。
能登地方は5月5日に震度6強の地震に襲われましたが、幸い、のと鉄道は一時運転を見合わせたものの、大きな被害はなかった模様です。
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- 2023/05/31(水) 00:01:38|
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今週は阿佐海岸鉄道DMVの2回目、甲浦~宍喰間を走るDMVです。

土手の上を走るマイクロバスに見えますね。
かつての車庫の脇に、旧車両が留置(放置?)してありました。

その脇にある桜の木が満開でした。
トンネルを抜けるとそこは高知県。かつての終着駅、甲浦(かんのうら)に到着です。

ここで一旦停止し、その先のモードインターチェンジで、鉄道モードからバスモードへと切り替えます。
同じ位置に停車する、1997(平成9)年のディーゼルカーです。

ここで、鉄道モードからバスモードに切り替えます。

その後、スロープを下って高架線から道路に下りて来ます。

現在は高架上のホームではなく、下の道路上に設けられた停留所から乗降します。
甲浦を発車すると、DMVは国道55号線に入り、海の駅東洋町に立ち寄ったあと、再び県境を越えて徳島県に戻ります。

甲浦からちょうどUターンするような形で終点の道の駅宍喰温泉に着きます。

ここには、日帰り入浴もできる温泉、「ホテルリビエラししくい」が隣接しています。
道の駅宍喰温泉は、その前に通ってきた宍喰駅から約1キロしか離れていません。
道の駅には、DMVと、以前走っていたディーゼルカーの模型が走っていました。

館内には宍喰出身で、かつて、プロ野球阪急ブレーブスを3年連続日本一に導いた上田利治監督のユニフォームが展示されていました。

そして、やはり宍喰出身のプロゴルファー、尾崎三兄弟のコーナーもありました。

普段は、阿波海南文化村~道の駅宍喰温泉を走っているDMVですが、土休日には、1往復のみ、四国の東南端の室戸岬を経由して「海の駅とろむ」まで運転されています。

甲浦から42.9キロ、黒潮の海を見ながら室戸岬の先にある「海の駅とろむ」を目指して走ります。
丘の上に立つ室戸岬灯台です。

甲浦からおよそ1時間で到着します。
室戸岬の海は白波が立っていました。

海の駅とろむに着いたDMVです。

DMVがここまでやって来るのは土日祝日に1日1本だけ、全車事前予約指定席です。
近くにある室戸ドルフィンセンターでは、イルカやウミガメを間近で眺めることができます。

こんなに近くでウミガメさんを見たのは初めてです。

でも、噛まれてはいけないので、手を出してはいけません。
阿佐海岸鉄道鉄道の切符です。

DMVになってからの阿佐海岸鉄道は、観光用に特化しているようで、地元の通勤通学客の姿は見られません。
運転本数は曜日によって異なり、月木金は13往復、火水は8往復、土日祝日は室戸岬方面への延長運転1往復を含めて11往復となっています。空席があれば、予約なしでも乗れますが、原則はインターネットによる事前予約制で、運賃はカード決済です。DMVの導入により、今まで遠くから足を運ぶことのなかった一定数の観光客が訪れるようになり、地元経済にプラスになっていることは確かなようです。
どうか、世界で初めてのこの試みが軌道に乗り、愛らしいDMVの車両がいつまでもこの地を走り続けて欲しいと願います。
なお、DMV導入以前のようすは、
こちらをクリックして頂ければ、ご覧になれます。
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- 2023/05/24(水) 00:02:56|
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今週から2回にわたり、四国の東南端を走る阿佐海岸鉄道のDMVをご紹介します。
阿佐海岸鉄道は、1992(平成4)年に開通した徳島県の南端にある海部(かいふ)駅から高知県の甲浦(かんのうら)駅を結ぶ、わずか8.5キロの第三セクター鉄道でした。
この路線は元々、国鉄牟岐線の牟岐から延伸して海部までは1973(昭和48)年に開業。その先、甲浦、室戸、奈半利、安芸を経て土讃線の後免に至る阿佐線として、四国一周鉄道の一部となる予定でした。しかし、その後、国鉄の財政破綻やモータリゼーションの発達により計画は頓挫。海部~甲浦間は阿佐海岸鉄道として、奈半利~後免間は土佐くろしお鉄道ごめんなはり線として開業したものの、甲浦~奈半利間の開通は実現しませんでした。
しかも、徳島県と高知県の県境を跨ぐ阿佐海岸鉄道は、沿線人口も少なく、利用者は極めて少なく廃線の危機に立たされていました。
そんな状況の中で起死回生策として2021(令和3)年12月に導入されたのが、線路と道路の上を両方走れるDMV(Dual Mode Vehicle)だったのです。

導入に当たり、JR牟岐線の接続駅だった海部駅は高架線上にあり、道路との接続が難しかったため、海部駅の1駅手前の地上駅だった阿波海南~海部間をJRから阿佐海岸鉄道に移管し、阿波海南駅構内に道路から鉄道へのモードチェンジを行なうモードインターチェンジを設置し道路から線路上へ乗客を乗せたままスムーズに変換させることができるようにしたのでした。
こちらは、阿波海南側の始発地点である阿波海南文化村停留所です。

ここから約1キロ離れた阿波海南駅まで道路上を走ります。
道路モードの時は、鉄道車輪はボンネットの下に収納されています。

これが、通常の運行区間です。

宍喰を出ると、すぐに県境を越えて甲浦で徳島県から高知県に入りますが、道の駅東洋町を過ぎると海岸沿いの道路を徳島県に戻り、宍喰駅からも歩いて行ける距離の「海の駅宍喰温泉」まで走るのです。
ここがJR牟岐線と接続する阿波海南です。

ここですぐにモードチェンジし、線路の上を走ります。

モードチェンジのようすは、DMV車内にモニター映像が流れます。

モードチェンジは、鉄道用の車輪が出てきて、まるで御神輿をかつぐようにひょいと車体が持ち上がります。
阿波海南~海部間を走るDMVです。

走る姿は、なんだかかわいらしく、思わず、微笑みたくなります。
海部川橋梁を渡る上りのDMVです。

この区間はDMV導入以前はJR牟岐線でした。
海部駅の北側にある山のない不思議なトンネルです。

ここは、国鉄牟岐線開業時には山があったのですが、その後、開発されて山が削られてしまったので、、山のない珍しいトンネルになったのでした。
同じ場所を走る1997(平成9)年のJR牟岐線の列車です。

この当時は、特急うずしおの車両が海部まで乗り入れていました。
DMV導入以前からの駅名票です。

AK28の駅番号が、徳島駅から28番目の駅であることを示しています。
海部駅に並ぶ新旧の車両です。

でも、ここにあるディーゼルカーが走ることは二度とないでしょう。
海部~宍喰(ししくい)間を走るDMVです。


このあたりの海は那佐湾という静かな入り江です。

桃の花が鮮やかに咲いていました。

こちらは桜です。

短いトンネルをいくつか抜けると、やがて宍喰駅に着きます。

宍喰駅です。

この駅には阿佐海岸鉄道の本社があります。

宍喰を発車する上りのDMVです。

後ろ姿もなんだか、愛らしく感じました。座席定員18名、立席3名のマイクロバスサイズです。
高架駅の宍喰駅は、開業当時からほとんど変わることはありません。

この駅の駅長さんは伊勢エビでした。

この続きは、来週ご紹介します。
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- 2023/05/17(水) 00:02:48|
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今週は徳島県のJR牟岐(むぎ)線をご紹介します。
現在の牟岐線は、徳島から南下し、阿波海南までの77.8キロを結ぶローカル線です。
2020年(令和2)年10月までは、阿波海南から1.5キロ先の海部(かいふ)までが牟岐線でしたが、
それ以降、同区間は阿佐海岸鉄道に移管されました。
徳島駅で発車を待つ牟岐線阿波海南行(左)と、高徳線板野行の列車が並んでいます。

もうすぐ桜咲く阿波赤石駅に着きます。

この駅の回りは、正に満開でした。


阿波赤石~立江間の立江川橋梁を渡ります。

羽ノ浦駅で停車中です。

阿波中島付近を走ります。

こちらは阿波中島~阿南間で那賀川を渡る上り列車です。

この線の中心駅、阿南に着きました。

これが阿南駅です。

この先、列車の運転本数が少なくなります。
阿波橘駅です。

昔ながらの木造駅舎が残っていますが、無人駅です。
1日1往復だけの特急「室戸」が阿波橘に停車しました。

阿波橘に咲く桜の脇を上り普通列車が通過します。

由岐(ゆき)駅付近の徳島行上り普通列車です。

日和佐は、近くの海岸にウミガメが卵を海に来ることで有名です。

牟岐駅のホームで下り阿波海南行普通列車が発車を待っています。

これが牟岐駅です。

その佇まいは、昔から変わりません。
まもなく終点の阿波海南に到着です。

この先は、阿佐海岸鉄道のDMVにお乗り換えです。
折り返し阿波海南から徳島行の上り列車が発車していきました。

さてこちらは1997(平成9)年の牟岐駅です。

JRの列車(右側)と牟岐まで乗り入れていた阿佐海岸鉄道の列車(左側)が並んでいます。
その当時は、岡山始発の一部の特急うずしお号が、牟岐から先、海部まで普通列車として乗り入れていました。

これは、国鉄時代、1975(昭和50)年の海部駅です。

この先、阿佐線として、甲浦から室戸、奈半利、安芸を経て、土讃線の後免までの路線が計画されていましたが、国鉄の財政破綻によって頓挫し、甲浦~奈半利間が開通することはありませんでした。
国鉄時代の牟岐線のきっぷです。

阿波海南から先、世界で初めて線路上と道路の両方を走るDMVが採用された阿佐海岸鉄道は来週、ご紹介します。
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- 2023/05/10(水) 00:01:19|
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今週は、JR日豊本線の臼杵駅と臼杵の町をご紹介します。
臼杵駅は大分駅から日豊本線で南に36.3キロの位置にあります。
これが臼杵駅に着いた普通列車です。

大分からは約45分で着きます。
こんな駅名票がありました。

これが臼杵駅の駅舎です。

特急列車もすべて停車する有人駅です。
さて、臼杵というと有名なのが臼杵の石仏ですね。
石仏までは駅前からバスで20分足らずで行くことができます。

但し、本数が少ないので、あらかじめ時刻を調べて行かねばなりません。

臼杵石仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて作られた磨崖仏で、61体すべてが国宝に指定されている貴重なものです。
これが、最も有名な大日如来像です。

この石仏は、何百年もの間、風化のため、頭と胴体が離れたままの状態で放置されていました。
これは、1977(昭和52)年に訪れた時の写真です。

その後、1993(平成5)年に元の姿に復元されました。
ここには、そのほかにもたくさんの石仏群があります。

阿弥陀如来像がたくさん並んでいます。
こちらはホキ石仏群と呼ばれています。

これは山王山石仏です。

選挙のポスターのような掲示板です。

近くには、こんな石塔もありました。

いかにも仏の里といった佇まいです。
暖かい春の日、のどかな風景が広がっていました。

こちらは近くにある満月寺という小さなお寺です。

そして、臼杵の名物と言えば「エイトドーナツ」でした。

地元で人気の手作りのやさしい味でした。
さて、臼杵の町に戻って、臼杵城趾公園を訪ねました。

臼杵城は1562(永禄5)年に大友宗麟が築城した平山城です。

城内は、正に桜が満開でした!

大門櫓は、桜の花に囲まれていました。
公園内では、花見を楽しむ多くの市民の姿がありました。

そして、こちらは、卯寅口門脇櫓です。

臼杵湾の向こうにまん丸い津久見島が浮かんでいました。
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- 2023/05/03(水) 00:02:13|
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先週に引き続き、久大本線の旅を続けましょう。
天ヶ瀬駅に停車中の「ゆふいんの森号」です。

豊後森駅です。

昔ながらの跨線橋が残されています。

のどかな佇まいですが、この駅にも特急列車が停車します。
桜の花に囲まれた旧豊後森機関庫です。

1934(昭和9)年の完成以来、久大本線の要衝として多くの蒸気機関車が配備されていました。
1971(昭和46)年にその役目を終えた後、そのまま放置されていましたが、その後、近代化産業遺産、および、登録有形文化財に指定され、現在は豊後森機関庫公園として整備されました。

そして、その一角にが9600形蒸気機関車が静態保存されています。
こちらは豊後中村駅です。

茅葺き屋根の駅舎は、全国で会津鉄道湯野上温泉駅と、この駅だけしかありません。
野矢~由布院間を走る博多行の「ゆふいんの森号」です。

そして、これが由布院駅です。

この町の町名は元々「湯布院町」ですが、駅名は「由布院駅」とややこしいことになっています。
これは、1955(昭和30)年に由布院町と、隣の湯平(ゆのひら)村が合併し、湯布院町となったためです。
けれども、その後、さらにほかの町を合併し、現在は由布市になっています。
湯布院の美しい春・・・。

中心部にある金鱗湖です。

このあたりは、いつも多くの観光客が訪れます。
仏山寺の苔むした山門です。

椿の花が咲いていました。
この町で買った呑み鉄の地酒は「八鹿(やつしか)」。

九重町のお酒です。
由布岳をバックに由布院~南由布間を「ゆふいんの森号」が走ります。

同じ場所を普通列車も走りました。

菜の花がきれいです。
南由布駅付近を特急「ゆふ号」が通過しました。

この駅の近くも桜が咲いていました。
庄内駅に停車中の上り列車です。

これは、豊後国分駅始発の大分行普通列車です。

大分に近づくと、列車本数が多くなります。
賀来~豊後国分間を、博多行の特急「ゆふ号」が通過していきました。

大分駅に到着した特急「ゆふ」号です。

列車はこのあと、日豊本線に乗り入れて、別府まで走ります。
さて、こちらは1080(昭和55)年の豊後森駅です。

こちらは同じ時の由布院駅です。

今では両駅とも、すっかり形が変わっています。
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- 2023/04/26(水) 00:02:26|
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今週から2回に分けて花いっぱい、九州の久留米と大分を結ぶ久大本線の春をご紹介します。
別府行の特急「ゆふ」が久留米駅に着きました。

この列車は、博多~別府間を久大本線経由で原則として1日3往復運転されている特急列車です。
田主丸駅に着いた久留米行の上り普通列車です。

このあたりは、河童伝説があり、駅舎が河童の形をしています。
そして、ホームには、緑色の大きな河童が鎮座していました。

桜咲く夜明駅です。

この駅からは、彦山、田川後藤寺を経由して日豊本線の城野までの日田彦山線が分岐しています。
けれども、2017(平成29)年夏に起きた豪雨災害による夜明~添田間の長期不通により、バスによる代行輸送が続いています。JR九州では、地元と協議の結果、この区間の鉄道を廃止し、BRT(バス高速輸送システム)による復旧となる見込みです。
光岡(てるおか)~日田間でも、桜が満開でした。

日田駅のホームです。

駅舎は変わりましたが、このホームの佇まいはいつ訪れても変わることはありません。
日田市の豆田町の街並みです。

城下町日田は、江戸時代から続く街並みが残されています。

豆田町にある雛御殿には、日本最大級という見事な十段飾りがありました。

江戸時代の私塾だった咸宜園(かんぎえん)です。

日田には、このような見所が市内に点在しています。
日田で買った呑み鉄の地酒は「薫長(くんちょう)」。

豆田町に酒蔵があります。
さて、こちらは、豊後中村付近の満開の桜の下を行く特急「ゆふいんの森号」です。

「ゆふいんの森号」は、博多~由布院間に1日2往復、博多~別府間に(原則)1往復走る人気の観光特急です。
こちらは豊後中川駅です。

かつての無粋な簡易駅舎が、趣のある和風駅舎に建て直されています。
こちらも、豊後中川付近の桜並木の横を走る普通列車です。

こちらは、豊後中川~天ヶ瀬間の玖珠川を渡る特急「ゆふ」です。

特急列車とはいえ、編成は2両だけです。

鉄橋の下に沈下橋がありました。
さて、こちらは1980(昭和55)年の夜明駅です。

この当時は、女性の委託駅員がいて、構内放送も行なわれていました。
そして、こちらは同じ時の日田駅のホームに停車中の普通列車です。

このころは、まだ旧型客車が現役で走っていました。
この続き、天ヶ瀬~大分間は、来週、ご紹介します。
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- 2023/04/19(水) 00:01:29|
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今週は、先週に引き続き、今年3月末で路線の大部分が廃止された北海道の留萌本線、冬のようすをご紹介します。
雪まみれになって深川駅に到着し、折り返し留萌行となるキハ54です。

これは、深川~北一已(きたいちやん)間を走る上り列車です。

北一已~秩父別(ちっぷべつ)間を行く下り列車です。

秋に訪れた時には田園風景が広がっていましたが、冬は大雪原です。
雪深い秩父別駅です。

この時の気温は氷点下19度、人の姿はありませんでした。
秩父別に到着した夕方の上り列車です。

秩父別で買った呑み鉄の酒は、その名も「ちっぷべつ」。

でも、中味は新十津川の「金滴」でした。
秩父別~北秩父別間を走る留萌行の列車です。

吹雪の中、雪に埋もれた幌糠(ほろぬか)駅は、車掌車改造の貨車駅でした。

藤山駅にやって来た深川行の列車に地元客がひとり。

この風景はもう二度と見ることはできません。
藤山駅も深い雪に包まれていました。

藤山~大和田間を、雪煙をあげながら走る留萌行の下り列車です。

そして、こちらは、留萌駅で折り返し、深川に向かう上り列車です。

車内は、お別れ乗車の鉄道ファンばかりでした。
留萌駅構内は、かつては広大なヤードがあり、ホームもたくさんありましたが、最後は駅舎側の1番線ホームがあるだけで、跨線橋は閉鎖されていました。

昭和の頃は100メートルほどの長い跨線橋が貨物ヤードを跨ぎ、その先に羽幌線の乗り場がありました。
でも、使われなくなった2番線、3番線ホームは除雪されることもなく、深い雪に埋もれていました。
それでも、ラッセル車は最後までこの駅で待機していました。

廃線になった増毛寄りの線路跡から眺めた最晩年の留萌駅です。

栄枯盛衰、物の哀れを感じてしまう風景でした。
これは、駅ツ閣に残る廃線跡の鉄橋です。

二度と列車が通ることのない鉄橋が、静かに佇んでいました。
それでも、駅舎の中には、ただ一軒、駅そばの店が営業していました。

この店の名物のにしんそばです。

ここには訪れる地元の人も多く、おそらく、最後は列車に乗る人よりも、この店でそばやうどんを食べる人の方が多かったことでしょう。聞いてみると、この店は廃線後もどこかに移転して営業を続けるとのでした。
駅前にあるバスのターミナルと、留萌本線とほぼ並行して深川や旭川まで走るバスです。

地元の人は、この時すでに列車より路線バスの方を利用していたようです。
JR北海道が売り出していた「北の大地の入場券」です。

そして、留萌駅のスタンプ、

左が国鉄時代、右が最後まで留萌駅にあったものです。
残された深川~石狩沼田間も3年後には廃線となり、留萌本線は完全に地図から消えてしまいます。
さようなら、留萌駅、さようなら留萌本線、123年間、お疲れ様でした。
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- 2023/04/12(水) 00:01:25|
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今週はこの3月末で、その路線の大部分が廃止となった北海道の留萌本線の秋と冬のようすを2回にわたってご紹介します。
留萌本線は、深川~留萌間が1910(明治43)年に、1921(大正10)年には留萌~増毛間が開通し、函館本線の深川と増毛間66.8キロを結ぶ路線となりました。札幌からの直通急行も走り、地域住民の足として、また魚介類、木材、石炭などの輸送手段として、欠かせぬ存在でした。
これは、国鉄時代の留萌本線の全有人駅の入場券です。


当時は、ほとんどの駅が有人駅でした。
しかしながら時代の流れと共に、1999(平成11)年に貨物輸送を廃止。2016(平成28)年には留萌~増毛間16.7キロが廃線となり、さらにこの度、石狩沼田~留萌間35.7キロが廃止されたことによって、残るは深川~石狩沼田間だけになってしまいました。そして、残されたこのわずかの区間も3年後の2026(令和8年)年の廃止が決まっています。
これは、初秋の深川~北一已(きたいちやん)間を行く下り列車です。

このあたりは北海道の穀倉地帯、実りの秋を迎えていました。
北一已駅です。

駅前煮立つ、イチイの木が印象的でした。まわりは何もない田園地帯ですが、こんな駅も有人駅だったのです。
北一已~秩父別(ちっぷべつ)間です。

こちらは秩父別駅に到着した上り列車です。

国鉄時代からの、なんとも味わい深い木造駅舎が残っていました。
こちらは小さな北秩父別駅。

昔からの無人駅で、一部の列車は通過します。
北秩父別~石狩沼田間の雨竜川を渡る下り列車です。

そして、これが石狩沼田駅です。

1972(昭和47)年までは、この駅から新十津川、札幌方面へ続く札沼線が分岐していました。
途中駅で唯一の簡易委託駅で、手書きの乗車券を買うことができます。


さて、この先が3月末で廃線になった区間です。
真布(まっぷ)駅です。

この駅は一部の列車が通過していました。
はたして、どれだけの人がこの駅を利用していたのでしょうか。
これは恵比島駅です。1971(昭和46)年までは、この駅から私鉄の留萌鉄道が分岐していました。

明日萌駅との表示がありますが、これは1999(平成11)年にNHKの連続ドラマ「すずらん」の舞台になった時の駅名で、この駅舎も撮影のために建てられたものです。右側に見えている倉庫のような小さな建物が本来の駅舎です。
恵比島~峠下間を行く上り列車です。

このあたりは、かなり深い山の中を走ります。
峠下駅は、最後は唯一の交換可能駅でした。

朝と夕方のみ、上下線列車が、この駅ですれ違いました。
これが峠下駅です。

立派な木造駅舎が最後まで残っていましたが、近年は地元の利用者はほとんどゼロだったようです。
幌糠駅の駅名票にはたくさんの蛾がとまっていました。

この年(2022年)の秋は蛾が異常発生し、あちこちで、蛾が飛び回っていました。
幌糠~藤山間を走る列車です。

峠を越え、このあたりも田園風景が広がっていました。
藤山駅です。

小さな木造駅舎ですが、無人化後に改造され、駅舎の半分が取り壊されたようです。
こちらは大和田駅です。

かつての貨物列車の車掌車を改造した貨車駅でした。
一時期、北海道で貨車駅がたくさん見られましたが、今では駅が廃止されたり、貨車が老朽化して撤去されたりして、その数が少なくなっているようです。
そして、これが終点の留萌駅です。
1967(昭和42)年に建て直されたコンクリート造りの二代目駅舎でしたが、最後はかなり老朽化していました。

かつて、6年前まで増毛方面への留萌本線の線路が続き、民営化直前の1987(昭和62)年3月までは国鉄羽幌線が分岐しており、さらに1967(昭和42)年までは天塩炭礦鉄道も発着していたターミナル駅でした。
これは、栄華を誇っていた頃、昭和30年代の留萌駅です。

留萌駅構内に展示されていた写真をお借りしました。
そして、こちらは留萌の黄金崎海岸です。

夕日のきれいな名所として知られています。
113年間の歴史を刻んできた留萌本線(深川~留萌間)のうち、残された区間は深川~石狩沼田間の、わずか14.4キロとなってしまいました。来週は、留萌本線の冬のようすをご紹介します。
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- 2023/04/05(水) 00:01:37|
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2018年10月より、4年半にわたってレギュラーで公開していました動画サイト【Yahoo!クリエイターズプログラム】『テツドラー田中の乗り鉄日記』が、この3月末で終了します。
この間、全国各地に足を伸ばして取材し、全47都道府県のローカル線を中心とした鉄道路線をご紹介してまいりましたが、
Yahooクリエーターズプログラムの、ショート動画が終了することとなったためです。
これは、記念すべき第1作目、2018年10月に公開した時のものです。

最初は導入部分が固定フォーマットで、1本が1分24秒でした。

以前のフォーマットはこのような感じでしたが、Yahooさんと相談の上、翌年4月19日から、50秒のショートバージョンにフォーマットを変更し、現在に至っています。
この間、全国をくまなく取材しました。
北海道の函館本線も、

東北北部のの五能線も、

新潟のほくほく線も、

東京の世田谷線も、

富士山を眺める御殿場線も、

大阪の環状線も、

中国山地も走る因美線も、

四国の予土線も、

九州の久大本線も、

そして、沖縄のゆいレールにも足を運びました。


各地のローカル私鉄や、

路面電車も、

そして、時にはロープウエイも取り上げました。

さらに、惜しまれながらその役目を終えた国鉄時代から走る185形「特急踊り子」や、

廃線になった札沼線の非電化区間、夕張支線、三江線も取材しました。

それに、この3月末で百年以上の歴史に幕を閉じて日本地図から姿を消してしまう留萌本線も何度も取材しました。

この間、ご紹介した本数は、259本・・・総アクセス数は約5,386万でした。

まだまだ、ご紹介したい路線はたくさんありましたので、プログラムの終了はとても残念です。
この間に公開しましたすべての作品は、まだ、しばらくの間、
ここをクリックしていただければ、すべてご覧になれます。
また、3月25日(土)から29日(水)までの5日間は、連日、これまでの動画の総集編を5回連続で公開しております。
長い間、ご視聴頂き、誠にありがとうございました。
追伸)4月5日を最後に、これまでのすべての動画が運営者により、削除されました。
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- 2023/03/29(水) 00:02:55|
- 著作/寄稿紹介/出演/講演など
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加計呂麻(かけろま)島は、奄美大島の南側にある東西およそ20キロの島ですが、地形が非常に入り組んだ複雑な海岸線が続き、島の周囲は147キロもあります。
奄美大島南部にある古仁屋(こにや)港から加計呂麻島の瀬相(せそう)港に入港する「フェリーかけろま」です。

島の中央部にある瀬相まで1日4往復、東部の生間(いけんま)まで3往復が運航されています。
所要時間は古仁屋から瀬相まで25分、生間まで30分です。
これは、島民の足、加計呂麻バスです。

フェリーの時刻にあわせ、島内にある30の集落を1日2~4往復しています。
島内を西から順番に回ってみましょう。
これは島の西の端にある実久(さねく)集落です。

石垣に囲まれた民家が並んでいます。
実久ブルーと呼ばれる実久海岸です。

これは実久集落から隣の芝集落に向かう林道の途中にある夕日の丘からの眺めです。

美しい実久ブルーが広がっています。
こちらは芝海岸。

そして、こちらは須子茂(すこも)海岸です。

どの集落にも、美しい海岸があります。
これは阿多地(あだち)集落にある巨大なガジュマルの木と、アシャゲと呼ばれる祭礼の場所です。

アシャゲとは、古代琉球の信仰に基づいて女性祭祀が儀式を行なう神聖な場所だそうです。
奄美群島は薩摩藩が侵攻するまでは、琉球王国の支配下にありました。
これはウティリミズヌ滝(嘉入の滝)です。

山の中にある清らかな流れでした。
嘉入(かにゅう)と西阿室(にしあむろ)を結ぶ林道で猪に出会いました。

島には山の中のあちこちにリュウキュウイノシシがおり、滞在中、3回、出会いました。
西阿室集落の夕景です。

この集落にある民宿「南龍」で3泊しました。

島好きの人が集まって呑んで歌い、、夜中に布団の中に猫が入ってくる愉快な宿でした。
島の北側の海岸で、対岸に見える奄美大島の瀬戸崎灯台の近くを航行するフェリーを見かけました。

この船は、鹿児島港から喜界島、奄美大島を経由して徳之島、沖永良部島を結んでいますが、加計呂麻島には停泊しません。
瀬相港には、大きな巻貝のモニュメントがあります。

持っているのは「みき」。米とサツマイモと砂糖を発酵させて作られた健康飲料です。
「みき」を買ったのは瀬相にある「いっちゃむん市場」。

島で一番大きな売店で、日用品やお土産品もここで買うことができます。
こちらは花富(けどみ)峠からの景観です。

西阿室と花富を結ぶ林道の途中にあります。

ただ、林道はかなりの悪路で、雨が降るとすぐに落石があり、道路が不通になります。
これは伊子茂(いこも)集落にある伊子茂まもる君です。

海辺にある学校の校門の前に立って、子供たちの安全を守っています!?
でも、本物のおまわりさんは島で見かけませんでした。
於斉(おさい)集落にある、巨大ガジュマルです。

どの集落にも、その中心に大きなガジュマルの木が立っています。
呑之浦(のみのうら)にある湿地帯にはマングローブが生えています。

ここにはシオマネキなど、貴重な生物が生息しているそうです。
美し過ぎる静かな内湾、呑之浦の海岸です。

でも、ここには悲しい歴史があります。

戦時中、小さな木船に爆弾を積んで敵艦に体当たりして自爆する特攻艇「震洋」の基地がここにあったのです。
その近くには、震洋の乗員としてこの地に赴任し、特攻前に終戦となったため命拾いをした作家の島尾敏雄氏の文学碑があります。

彼は、戦後、その悲惨な体験に基づいた小説を残したそうです。
こちらは諸鈍(しょどん)集落にある「男はつらいよ記念碑」です。

渥美清さん主演の寅さんシリーズの最終回『男はつらいよ寅次郎紅の花』がこの島を舞台に撮影されたのは1995(平成7)年のことでした。
諸鈍にあるデイゴ並木です。

5~6月頃に花を咲かせるそうです。
諸鈍にある大屯(おおちょん)神社です。

ここでは秋になると壇ノ浦で敗れた平家の落人がはじめたという「諸鈍芝居(しばや)」という踊りが演じられるとのこと。
これは、800年以上も受け継がれている伝統芸能だそうです。
諸鈍にはトックリキワダの花が咲いていました。

こちらは安脚場(あんきゃば)戦跡公園にある、弾薬庫です。

島の東端にある安脚場の高台からは奄美大島との間の大島海峡が見渡せます。

戦時中には、ここに砲台が設けられ、敵の潜水艦を監視していました。
この美しい南の島にも、悲しい戦争の歴史があったことを忘れてはなりません。
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- 2023/03/22(水) 00:01:23|
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奄美群島の旅の4回目は、群島の中心、奄美大島をご紹介します。
奄美大島は鹿児島と沖縄の中間に位置する沖縄本島、佐渡島に次ぐ大きな島で、周囲は461キロもあります。
徳之島の亀徳港から3時間半、「フェリー波之上」が奄美大島の名瀬港に着いたのは夜の8時半でした。

さっそく、名瀬の繁華街、屋仁川に繰り出しました。

奄美の人口あたりの飲み屋さんの数は、日本一とのことで、深夜まで賑わっています。
この夜、入ったお店で呑んだのは「里の曙」。

もちろん、奄美大島の黒糖焼酎です。
翌日、レンタカーを借りて出かけました。

住用川の展望台からはマングローブの密林が見渡せます。

マングローブパークでは、マングローブの中を行くカヌーを楽しむことができます。

島南部の高知山展望台からの眺めです。

南国の木々の向こうに加計呂麻(かけろま)島が見えいます。
これは、瀬戸内町の古仁屋港にある「クロマグロ養殖日本一」のオブジェです。

古仁屋港からは、徳之島の平土野(へとの)港や、加計呂麻島、与路島(よろじま)、請島(うけしま)へのフェリーが発着しています。
瀬戸内町の「きゅら島交流館」です。

ご当地出身力士、明生関の力士幟がたくさん並んでいました。
宇検村(うけんそん)にある赤土山展望台からの眺めです。

きっと、この山の中にはアマミノクロウサギやハブなど、たくさんの野生動物が住んでいることでしょう。
宇検村・湯潟の小さな漁港です。

このあたりは静かな入り江です。
こちらは大和村にある今里立岩です。

水平線の向こうには、一隻の船も見当たりませんでした。
山に向かう道で、名もない滝が流れていました。

深い山の中にあるマテリアの滝です。

このあたりには、アマミノクロウサギがたくさんいるそうです。

これは大和浜の群倉(ぼれぐら)と呼ばれる穀物貯蔵庫です。

釘を一本も使用していないのに、台風に強く、また柱がカンナで削ってあるためネズミが登ってこられないことや、風通しがいいなど、とても利点の多い建物だそうです。
名瀬の中心部にある奄美博物館にも行きました。

この博物館では奄美の歴史、自然、風俗などが、わかりやすく展示されています。
戦後、奄美群島は沖縄と共にアメリカ軍に接収されていました。

奄美が日本に復帰したのは戦後、8年目の1,953(昭和28)年のことでした。
これはアマミノクロウサギの剥製です。耳が短いのが特徴です。

絶滅危惧種ですが、保護対策が実り、近年は生息数が増えてきているそうです。
屋外には奄美地方の古民家が移築されていました。

沖縄の家の赤瓦と違って、とんがった茅葺き屋根が特徴です。
帰りは北部にある奄美空港から島を離れました。

広い奄美大島には、ほかにもたくさん見所があります。
また、機会を見つけて再訪したいと思っています。

さようなら奄美大島・・・
来週は、奄美大島の南にある加計呂麻島をご紹介します。
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- 2023/03/15(水) 00:00:33|
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今週は奄美群島の旅の3回目、徳之島をご紹介します。
徳之島は周囲約89キロ、奄美群島の中では奄美大島に次いで大きな島で、鹿児島市の南方468キロの位置にあります。
那覇を出港してから9時間半、沖永良部島から1時間50分で、マリックスラインのフェリー「クイーンコーラルプラス」は夕方の徳之島・亀徳港に着きました。

翌日、レンタカーで島を左回りで巡りました。

ここは島の東海岸、亀徳港の南にある喜念浜(きねんばま)海岸、奄美の島々の海は、どこもたとえようもなく美しいのです。
徳之島といえば、闘牛が有名です。

伊仙町にある「徳之島なぐさみ館」は、島内に3箇所ある闘牛場のひとつ。
この日は、牛が会場になれるための練習が行なわれており、相手を威嚇する猛獣のような牛たちの声が城内に響き渡っていました。
これは、120歳、長寿世界一で有名な泉重千代翁の銅像です。

なぜか、賽銭箱が置いてあるのがおかしいですね。
生家の隣りにある、小さな記念館には、重千代翁にちなんだ写真や資料が展示されています。

こちらは瀬田海(せたうみ)海浜公園。

そして、こちらは阿権(あごん)集落にある三百年ガジュマルです。

珊瑚礁の石垣の上に覆い被さるように建っていました。
犬田布(いぬたぶ)岬の風景です。

犬田布岬には高台に戦艦大和慰霊碑があります。

太平洋戦争中の1945(昭和20)年4月7日に、沖縄に向かっていた戦艦大和を旗艦とする艦隊が米軍機の猛烈な攻撃により全滅し、3,737名が戦死したのでした。その沈没地点は実際には徳之島よりも300キロも離れた北方海上でしたが、当初、徳之島の西方海上と報告されたため、この場所に立てられたそうです。それだけ離れていても、この時の戦死者の遺体がこの島まで流れ着いたとのこと、思わず、この塔の前で手を合わせたのでした。
その塔のすぐ近くで、自衛隊車両がたくさん並んでいました。

偶然ですが、ここを訪れたとき、日米合同の離島上陸訓練を行なっていたのです。
大和の慰霊碑の前で軍事訓練、なんとも複雑な心境でした。
高台から犬の門蓋(いんのじょうふた)と呼ばれる海岸を眺めました。

南国の木々の下に広がる独特の風景に目を奪われます。
海岸に下りてみると、巨大な奇岩群に圧倒されました。

隆起珊瑚礁が長年にわたる波風に当たって生まれた奇景です。

こちらも、犬の門蓋にあるめがね岩です。
こちらはウンブギと呼ばれる海底鍾乳洞です。

何とも神秘的なこの洞窟は、徳之島空港の近くにあります。
平土野(へとの)付近の海岸に沈む夕陽です。

ここにもフェリーターミナルがあります。
その夜は奄美の黒糖焼酎でいい気持ちになりました。

さて、こちらは翌日、訪れた与名間(よなま)ビーチです。

島の北端の西側にあります。
そして、近くにある与名間崎灯台です。

これはムシロ瀬という海岸です。

珊瑚礁が多いこのあたりの海岸としては珍しい花崗岩が並んでいます。
島の北東にある金見崎灯台です。

海の向こうに奄美大島の南にある与路島(よろじま)が見えます。
沖に浮かんでいるのはトンバラ岩です。

ダイバーと釣り人が渡し船で訪れるそうです。
こちらは金見海岸。

エメラルドグリーンに輝く珊瑚礁の海岸は、見ていて飽きません。
井之川集落に第46代横綱朝潮太郎の銅像がありました。

濃い胸毛と、もみ上げが特徴的なこの集落出身の昭和30年代の横綱でした。
沖合に自衛隊の艦船「くにさき」の姿がありました。

合同演習でアメリカの軍艦「ニューオーリンズ」も来ていたそうです。
翌日の夕方の「フェリー波之上」で今度は奄美大島を目指します。

驚いたことに、このフェリーには演習を終えた数多くの戦車が積み込まれました。

次は奄美大島の名瀬港に向かいます。

来週は奄美大島をご紹介します。
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- 2023/03/08(水) 00:01:35|
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奄美群島の旅の2回目、今週は沖永良部島(おきのえらぶじま)をご紹介します。
与論港から1時間20分の航海で、沖永良部島の和泊港に着きました。
これが、和泊港のフェリーターミナルです。

港の近くにある南洲神社には、西郷隆盛像があります。

西郷隆盛は1862(文久2)年、藩主・島津久光公の命に背いた罪で沖永良部に流罪となり、このように壁もない屋外の牢に幽閉されました。

後に、衰弱する西郷に同情した島の役人、土持政輝が自宅に作った座敷牢へと移され、そこで、島の人々に学門や道徳、政治を教え、島人たちに慕われていたと伝えられています。

これらの展示は西郷南洲記念館にありました。
島の北東部、国頭(くにがみ)小中学校の校庭には、日本一大きなガジュマルの木があります。

2017(平成29)年には、ここに平成の天皇皇后両陛下が来られたそうです。
島の北端にある国頭岬灯台です。

このあたりから北側を見ると徳之島が見えます。

国頭岬から島の北側を西に向かうと「フーチャ」と呼ばれる潮吹き洞窟があります。

これは、隆起珊瑚礁が、長年の荒波で浸食されてできあがった洞窟です。
さらに西に向かうと、西原付近の海岸が見えてきます。

このあたりは荒々しい海岸の風景が続きます。

やがて、着いた美しい砂浜の海岸はワンザビーチ。

鯨が近くを泳いでいることもあるそうです。
夜は、ここのキャンプ場でバーベキューを楽しみました。
バナナの木を見つけました。

公園に「トックリキワタ」と呼ばれる花が咲いていました。

こちらは、和泊町歴史民俗資料館です。

昔の古い民家が移築されていました。
こちらは約600年前にこの島を治めていた琉球北山王の次男、世之主加那志(よのぬしがなし)の墓です。

島を護るため身を挺して中山王国との戦いを阻止し、島民に慕われていた王様でした。
1609(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻までは、琉球王国がこの島を統治していたのです。
これは、後蘭孫八城跡です。

後蘭孫八は世之主の臣下で、平家の末裔と言われている人物です。

うっそうとしたジャングルの中に、琉球王国時代の城跡が残されていました。
こちらは、昇龍洞と呼ばれる鍾乳洞です。

沖永良部島は珊瑚礁が隆起してできた島で、島内には200以上の鍾乳洞があるそうです。
その中で、この昇龍洞は、全長3500メートルという最大規模のもので、そのうちの600メートルが一般公開されています。

島の西北端にある田皆岬灯台です。

この岬の海の向こうは、中国大陸です。
フェリー「クイーンコーラルプラス」に乗って、沖永良部島を離れます。

次は徳之島の亀徳港に向かいましょう。

船内で呑んだのは、沖永良部島の黒糖焼酎「はなとり」でした。

来週は、次に訪れた徳之島をご紹介します。
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- 2023/03/01(水) 00:02:06|
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今週からしばらく鉄道の旅をお休みし、5回連続昨年11月に訪れた奄美群島の島々を南から順にご案内します。
第1回目は、鹿児島県最南端、沖縄本島のすぐ北側にある与論島(よろんとう)をご紹介します。
与論島は鹿児島県とはいいながらも、県都の鹿児島市からは563キロも離れているのに対して、沖縄本島最北端の辺戸岬(へどみさき)からは、わずか23キロしか離れていません。
与論港に停泊中のフェリー「クイーンコーラルプラス」です。

与論島には鹿児島港から那覇港を結ぶ大型フェリーが1日1往復、2社の船が交互に運航されています。
この船は2つのうちのマリックスラインのフェリーです。那覇港からは本部港を経由し、4時間50分の船旅です。
これは、与論港に近いパラダイスビーチです。

丘の上からのパラダイスビーチの美しさは、訪れた人を魅了します。

沖には鹿児島港から、奄美大島、徳之島、沖永良部島を経てやって来たフェリーの姿が見えました。
近くの丘の上に「ヨロン駅」があります。

といっても、鉄道のない与論島に列車が来るわけではありません。ここは、1979(昭和54)年に国鉄の周遊指定地に与論島が指定されてから10周年を記念して、旧国鉄から贈られた列車の車輪と線路を設置し、ホームとベンチを設けて「駅」としたモニュメントなのでした。
「呑み鉄」の酒は与論島の黒糖焼酎「島有泉」。でも、レンタカーなので、実際に呑んだわけではありません。

与論島は晴れた日の夜は満天の星が広がります。そう、ここは満天の空に続く銀河鉄道の駅なのです。
ここは島の南部にあるサザンクロスセンター。

見晴らしのいい高台に建てられた郷土資料館、兼展望台になっています。。
これは、毎年三回、旧暦の3月15日、8月15日、10月15日に行なわれるという十五夜踊りの衣装です。

国の重要無形民俗文化財に指定されています
サザンクロスセンター5階の展望台から眺めた与論港と茶花の町です。

手前に見えるのは琴平神社で、十五夜踊りはこの境内で行なわれます。

海の向こうに見える島影は沖縄本島です。
こちらは与論城跡の石垣です。

与論島は、600年ほど昔、琉球の北山王国が支配しており、ここに城を築こうとしたものの、その途中で、敵対する琉球の中山王国に滅ぼされたため、未完成に終わったとされる城跡です。
翌朝、赤崎(あーさき)海岸の夜明けです。

与論民俗村を訪れました。

昭和のころは、与論島の民家はこのような茅葺き屋根の家が多かったそうです。
赤い琉球瓦の家が多い、沖縄とはあきらかに違う造りです。
民俗村のすぐ近くに赤崎鍾乳洞があります。

規模はそんなに大きくないけれど、神秘的な世界が広がります。
与論島で一番長い砂浜が広がる大金久(うぷがにく)海岸です。

この海岸の沖1.5キロには百合ヶ浜という砂州があり、そこはエメラルドの海に囲まれたこの世の楽園のような場所とのこと。2月から10月にかけての中潮から大潮の日の干潮時のみ姿を表わすそうです。
寺崎(てぃらさき)海岸です。

与論島は島の周囲、いたる所にこのような美しい海岸があります。
奄美海運の「フェリーあけぼの」の客となり、次の島、沖永良部島に向かいました。
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- 2023/02/22(水) 00:01:58|
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今週は、まもなく運行を終える岩手県の「SL銀河」号の旅をご紹介します。
「SL銀河」は2014年4月からJR釜石線で運行しているSL列車です。
シーズン中を中心に、土曜日は下りの花巻~釜石間、日曜日は登りの釜石~花巻間を運転されていましたが、この春を最後に運行を終了することになりました。

釜石駅で発車を待つ上りのSL銀河です。

客車内はこんなお洒落な内装になっています。

こちらはトンネルを抜けて、陸中大橋駅に到着した下り列車です。

客車は4両編成で、元はJR北海道を走っていました。

上りの快速列車と交換です。

陸中大橋駅を発車する下り列車です。

こちらは上有住(かみありす)駅に停車中の上り列車です。

遠野駅では、下り列車は1時間19分、上り列車は2時間7分停車するので、乗客たちは思い思いに町を散策します。


柏木平~宮守間のアーチ橋を渡る下り列車です。

車内で飲んだ呑み鉄の酒は釜石の地酒「浜千鳥」と、地ビールの「はまゆりビール」。

終点の花巻に着いた上り列車です。

このSL銀河の運行は、この春が最後です。(1〜2月は運転されません)
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- 2023/02/15(水) 00:01:44|
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今週は平成の島原鉄道、加津佐まで列車が走っていた2003(平成15)年と、南線が廃止間際だった2007(平成19)年のようすをご紹介します。
平成19年当時の諫早駅、旧ホームです。

森山駅に入線した国鉄色のキハ20です。

こちらは夕暮れの多比良町駅。

旧型気動車がよく似合います。
こちらは1997(平成9)年から2008(平成20)年まで走っていたトロッコ列車に併結されていた気動車です。

このトロッコ列車は島鉄ハッピートレインの愛称で親しまれていました。

南島原(現島原船津)駅構内の車庫には、新旧の気動車やトロッコの姿も見られました。

島原外港駅(現島原港)から南、加津佐までの35.3キロは、2008(平成20)年4月に廃線になりました。
安徳~瀬野深江間にあった安新大橋で水無川を渡るキハ20です。

鉄橋の背後に見えるのは普賢岳です。
1991(平成3)年から続く普賢岳の火山活動により、島原鉄道は再三不通になったため、1997(平成9)年に島原外港~深江間の高架化に伴い、この鉄橋が完成しました。

けれども、この鉄橋の完成からわずか10年あまりで廃線になってしまったのです。

有家(ありえ)駅です。

有家駅の運賃表です。

西有家~竜石間は有明海に面して走っていました。

古びた駅名票が旅情を誘いました。

北有馬付近を行く列車です。

こちらが北有馬駅です。

こちらは浦田観音駅。

そして、原城駅です。

近くに、島原の乱でこの地で幕府軍と戦って戦死した切支丹、天草四郎の原城跡があります。

原城駅を発車する列車です。
これが、平成16年の終着駅、加津佐です。

廃線間際の雨の加津佐駅で発車を待つ旧型気動車です。

これらの旧型車両は廃線と同時に廃車となりました。
島原外港~加津佐間が廃止されてから、15年の月日が過ぎようとしています。
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- 2023/02/08(水) 00:02:48|
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島原鉄道の3回目、今週は1982(昭和57)年に私が初めて訪れた時の島原鉄道をご紹介します。
諫早(いさはや))駅で待機中の列車です。
当時の列車の多くは前面に赤い三本のラインが入っており「三本ヒゲ」と呼ばれていました。

当時は国鉄諫早駅の1番線ホームの同じホームに島原鉄道の乗り場がありました。
当時は、諫早から島原半島の南端にある加津佐(かづさ)まで78.5キロの線路がつながっていました。

途中駅での交換風景です。

どこの駅だったか不明だったのですが、鉄道ファンのMKさんのご指摘により、これは吾妻駅であることが判明しました。
ありがとうございます。
急行列車がやってきました。当時、100円の急行料金が必要でした。

また、これより2年前の1980(昭和55)年10月までは、国鉄に乗り入れて博多まで走る急行もありました。
南島原駅構内の留置線に古い気動車が並んでいます。

南島原駅は、現在は島原船津と駅名が改称されていますが、現在もこの場所は車両基地になっています。
今は廃線になった北有馬駅付近を行く貨物列車です。

この線を走る貨物列車は1984(昭和59)年に廃止されています。
当時の終着駅、加津佐駅です。

なんとも趣のある木造駅舎でしたが、1985(昭和60)年にコンクリートの駅舎に建て替えられました。
手書きの駅名標に風情を感じます。

国鉄と共用だった始発駅の諫早駅です。

いかにも地方の鉄道の要衝といった貫禄のある二代目の駅舎でしたが、新幹線工事に伴い、2016(平成28)年に取り壊されてしまいました。
昭和57年当時のきっぷです。


すべてが、硬券でした。
来週は平成時代のようすをご紹介します。
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- 2023/02/01(水) 00:01:44|
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先週に続いて、島原鉄道の旅
「カフェトレイン」が大三東駅に着きました。カフェトレインは月に3~5回、諫早駅から島原駅まで運転され、スイーツコースとランチコースの2つのコースがあります。

「
カフェトレイン」は毎月、土日
大三東で40分間停車するので、乗客たちは列車から降りて思い思いの時間を過ごします。。
カフェトレインはアテンダントさんが案内してくれます。

この日はスイーツコース。

こんなお弁当もつきます。

島原に着きました。

島原駅には、島原城をイメージした堂々たる駅舎があります。

桜咲く日の島原城です。

島原城では、凛々しい七万石武将隊が演舞を披露してくれます。

これは市内にある湧水庭園四明荘です。

カフェトレインに乗ると、この庭園と島原城の入場券がセットになっています。
こちらは江東寺の涅槃像です。

列車の旅を続けましょう。

島原駅を発車し、霊丘(ゆうきゅう)公園体育館駅付近を行く列車です。
霊丘公園に生体保存されているC12形蒸気機関車です。

1968(昭和43)年までの20年間、島原鉄道で走っていた機関車です。
こちらは島原船津付近です。

終点の島原港駅はもうすぐ。
ここが終点の島原港駅です。

かつて、この駅から先、35.3キロ先の加津佐駅まで列車が走っていました。

けれども、2008(平成20)年に廃線になってしまいました。
近くで買った呑み鉄の酒は、珍しいわかめ焼酎「七萬石」。

島原外港には、熊本に行くフェリーが停泊していました。

来週は、加津佐までの南目線が走っていたころの島原鉄道の様子をご紹介します。
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- 2023/01/25(水) 00:02:30|
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今週から長崎県の島原半島を走る島原鉄道をご紹介します。
島原鉄道は長崎本線の諫早(いさはや)駅から分岐して、島原港駅までを結ぶ43.2キロの路線です。
諫早駅を発車した島原鉄道の下り列車です。

左手に見える線路はJR長崎本線、奥に開通したばかりの西九州新幹線の諫早駅が見えます。
諫早~本諫早間にあるトンネルを出た上り列車です。

本諫早駅です。

諫早市役所に近い市の中心部にあり、諫早駅との1.5キロの間に区間運転列車が多数運転されています。
本諫早の近くの諫早公園にある眼鏡橋です。

1958(昭和33)年に日本で最初に国の重要文化財に指定された橋です。1839(天保3)年に近くを流れる本明川に架けられた石造りの橋で、1957(昭和32)年に起きた大水害の後、河川の改修工事に伴って諫早公園内に移築されました。
こんな名前の駅がありました。

島原鉄道の駅名票には「神代みさき」という鉄道むすめ(イメージキャラクター)が描かれています。
愛野駅を発車する島原港行の列車です。

この駅は、赤いとんがり屋根の駅舎が目印です。
こちらは吾妻駅です。

雲仙市役所に近く、市の代表駅ですが、無人駅となっています。
有明海に面した古部(こべ)駅です。

海の目の前にホームがあります。
こちらは小さな小屋のような待合室があるだけの大正駅。

列車が発車すると、静まりかえっていました。
神代(こうじろ)で、上下線の列車が交換しました。

神代駅の近くには、旧家の鍋島家邸宅があります。

神代~多比良(たいら)間を行く列車です。

そして、こちらが多比良駅。

近くの多比良港から有明海をはさんで対岸の長州港までのフェリーが発着しています。
もうひとつの海辺の駅、大三東(おおみさき)に下り列車が到着しました。

ホームには「幸せの黄色いハンカチ」が並んでいます。
これが大三東駅です。

大三東駅前の酒屋さんで買った呑み鉄の酒は「普賢岳」。

大三東から先、島原港までの旅は来週、ご紹介します。
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- 2023/01/18(水) 00:01:37|
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今週は沖縄県唯一の鉄道、沖縄都市モノレール、通称ゆいレールをご紹介します。
ゆいレールは、戦後の沖縄県唯一の鉄道として2003(平成15)年に、那覇空港~首里間12.9キロが開通。2019(令和元)年10月に首里から浦添市にあるてだこ浦西間4.1キロが延伸開業しました。
2両編成の小さな車両が走っていますが、混雑が激しいため、現在、3両化に向けた工事が行なわれています。
沖縄の玄関口、那覇空港です。

ゆいレールが那覇空港駅から那覇市内中心部に向けて発車しました。

赤嶺駅の前には、日本最南端の駅の石碑が立っています。

奥武山(おうのやま)公園~坪川間を走ります。

奥武山公園は市民の憩いの場所です。

この公園には野球場があり、プロ野球が行なわれることもあります。
壺川付近で上下線の列車がすれ違いました。

国場川に沿って走ります。
旭橋付近です。

ここは元、沖縄県営鉄道の那覇駅があった場所で、現在は県内各地へ向かうバスセンターがあります。
那覇中心部の牧志付近です。

ここは国際通りの最寄駅。
国際通りはいつも多くの観光客で賑わいます。

夏になると国際通りでエイサー祭りが行なわれます。

こちらは国際通りに近い平和通りです。

戦後復興と共にできたアーケード街で、昔ながらの佇まいを残しています。

沖縄にはたくさんの種類の泡盛があります。

こちらはおもろまち駅です。

近くに免税店などの大規模なショッピングモールがあり、那覇の新都心と呼ばれています。
おもろまち駅で上下列車が出会いました。

ゆいレールには、色々なラッピングを施した車両がたくさん走っています。
首里駅です。

2019年にてだこ浦西まで開通する前は、この駅が終点でした。
ありし日の首里城です。

2019年10月の火災により焼失し、現在、2026年完成を目指して復元工事中が行なわれています。
新線区間に入った最初の駅、石嶺です。

このあたりまで来ると、観光客の姿はなく、地元の足として走っています。
経塚~浦添前田間の高い高架の上を走ります。

これが、浦添前田駅です。

このあたりから那覇市から浦添市に入ります。
トンネルを抜けると、終点のてだこ浦西に到着します。

「てだ」とは、沖縄の方言で太陽という意味だそうです。
昔、琉球王国の首都が浦添だった時の王様「英祖王」の父が太陽であったという伝説に基づき、王様は太陽の子、つまり「てだこ」と呼ばれるようになり、浦添ではよく使われる言葉です。
これが、てだこ浦西駅です。

駅前にはバスターミナルがあります。
この先、延伸する構想はあるものの、それが実現するかどうかはわからないようです。
なお、以前にご紹介したゆいレールの記事は
こちらです。
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- 2023/01/11(水) 00:01:38|
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今週は、太平洋戦争の戦禍により、消滅した沖縄県営鉄道をご紹介します。
この鉄道は、沖縄の那覇駅を中心として与那原(よなばる)線、嘉手納(かでな)線、糸満(いとまん)線の、合わせて47.8キロの路線がありました。
1913(大正3)年に与那原線、1922(大正11)年に嘉手納線、翌年には糸満線が開業しています。
しかしながら、太平洋戦争の激化により、1944(昭和19)年から1945(昭和20)年にかけて米軍の攻撃により、徹底的に破壊され、45年3月以降は列車の運行が完全に不可能となり、戦後も復旧することなくそのまま廃線となってしまいました。
これは、現在のゆいレール旭橋駅近くに残る当時の転車台です。

使用されていた機関車が小さかったため、転車台もかなり小さなサイズです。

煉瓦は当時のままのものです。
転車台と蒸気機関車をイメージした模型が置かれていました。

これは、近くにあった写真で、かつての那覇駅と、県営鉄道の鉄道唱歌が記されています。

那覇駅の手書きの図面がありました。

これは、路線図です。

県営鉄道が経営する路線バスのあったようです。
戦前から駅のスタンプがあったのですね。

これは、戦禍で破壊された那覇駅です。

空襲で転覆した列車です。

これらの写真や資料は、すべて、転車台の回りに掲出されています。
一方、こちらは与那原駅跡に復元された駅舎です。

現在は展示資料館になっています。
ホーム跡に残る駅舎の柱です。

これが、ここで現存する唯一の遺構です。
駅舎の前には1921(大正10)年3月6日に、東宮殿下(当時、皇太子だったのちの昭和天皇)が、与那原駅から沖縄軽便鉄道に乗車された記念碑が立っています。

内部は小さな鉄道資料館になっていました。

展示館の内部は原則、撮影禁止でしたが、許可を得て撮影しました。
これは、展示されていた1934(昭和9)年に撮影された開業20周年の記念列車の写真です。

こちらは1943(昭和18)年に与那原駅で撮影された当時の駅員さんたちの記念写真です。

この1年後に、戦禍によって破壊されるとは、想像もつかなかったことでしょう。
1943(昭和18)年の時刻表です。

当時、与那原線には1日12往復、嘉手納線には10往復、糸満線には8往復の列車が運転されていたことがわかります。
展示資料館の入場券と、復刻された当時の乗車券です。

もし、この鉄道が戦後も走り続けていたら、国鉄の路線になっていたのでしょうか?
戦前には名護まで40キロあまりの延伸計画もあったそうです。
破壊された線路や車両は、1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争に伴う鋼材不足により、スクラップとして撤去されてしまい、現存する車両はなく、廃線跡もほとんど残されていないということです。
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- 2023/01/04(水) 00:01:03|
- 沖縄
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今週はJR芸備線の閑散区間の2回目、備後落合~備中神代間をご紹介します。
備後落合駅です。

かつては大勢の駅員が勤務し、駅弁も販売されていた中枢駅でしたが、今は静かな無人駅です。
新見行の列車が発車を待っています。

備後落合からの芸備線上り列車は一日たった3本だけ。備中神代から先、伯備線を通って新見まで直通します。
備後落合~道後山間を行く新見行上り列車です。

2020年度の備後落合~東城間の乗車人員は、たった9人でした。
つまり、この区間の一日の利用者は9人しかいないということで、全国のJRの中でワースト1なのです。
国鉄時代から、路線の廃線基準が一日あたり2000人未満ということを考えると、もはや絶望的な数字としかいいようがありません。
道後山~小奴可(おぬか)間です。

小奴可駅も、かつて一部の急行列車が停車していました。

けれども、今では反対ホームの線路は撤去されています。
秘境駅と言われるうち内名駅です。

この駅は昔から無人駅だったようです。
こぢんまりとした備後八幡駅です。

かつての駅事務室が撤去され、待合室部分だけが残っています。
備後八幡~東城間の田園地帯を走ります。

この列車には、果たして何人乗っているのでしょうか。
かつて主要駅だった東城駅です。

東城~新見間は列車本数が増え、平日は一日6往復になります。
東城の地酒「菊文明」です。

東城駅からバスで行ける帝釈峡です。
でも、本数がごくわずかの列車とバスを乗り継いで帝釈峡に行く人がいるのでしょうか?

かつての芸備線を走る急行「たいしゃく」はここにちなんで名付けられました。
野馳(のち)に着いた上り列車です。

こちらは朝の矢神駅です。

高校生が乗り込みます。東城~新見間は、まだ地域の生活の足として、わずかながらも機能しているようです。
芸備線の起点である備中神代駅です。

列車はこの駅から伯備線に乗り入れて新見まで直通します。
備中神代と新見の間にある布原駅です。

この駅は伯備線にある駅ですが、伯備線の列車は一本も停車せず、停まるのは芸備線の列車だけという不思議な駅です。
ここはかつて、伯備線を走る蒸気機関車の撮影地として有名な場所でした。
新見駅で発車を待つ東城行です。

新見からは伯備線のほか、姫新線も発着しています。
国鉄時代のこの区間のきっぷです。

はたして、芸備線のこの区間は、いつまではしりつづけられるのでしょうか。
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- 2022/12/28(水) 00:00:01|
- 中国(山陰山陽)
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今週から中国山地を東西に走るJR芸備線のうち、三次(みよし)以東の閑散区間を2回に分けてご紹介します。
今回は三次~備後落合間です。
芸備線は広島駅から岡山県の備中神代(びっちゅうこうじろ)駅を結ぶ159.1キロの長大なローカル線です。
そのうち、三次~備中神代間90.3キロは、JRが単独では維持できないとして、存続の危機に立たされている閑散区間です。
元々、芸備線は、山陽と山陰を結ぶ陽陰連絡線のひとつとして開業し、かつては、急行「ちどり」「たいしゃく」「やまのゆ」などの急行列車が行き交う幹線に準ずる路線で、木次線を経由して広島~鳥取間の夜行列車が運行されていた時代もありました。
しかしながら、沿線人口の減少、モータリゼーションの発達、高速バスの台頭などの理由で、利用者が年々減少し、廃線の危機に陥ってしまったのでした。
三次駅で発車を待つ備後落合行の列車です。

三次から備後落合方面に発車する芸備線の列車は平日は一日7本、休日は5本しかありません。
三次~八次(やつぎ)間を行く列車です。

たった1両だけのキハ120形が走っています。
昔ながらの佇まいを残す神杉駅です。

かつては有人駅でした。
神杉~塩町間の美波羅川を渡る列車です。

塩町駅です。

この駅から福塩線が分岐していますが、この駅に来る福塩線の列車はすべて、三次まで乗り入れています。
西日を受けながら、塩町駅にやって来た三次行の列車です。

こちらは備後庄原にやって来た備後落合行です。

この駅は庄原市の中心駅で、かつては急行列車も停車していましたが、今はひっそりとしています。
乗客の多くは路線バスに奪われてしまいました。
駅前の酒屋さんで買った呑み鉄の酒は「白牡丹」。

広島県西条のお酒です。
駅前の大きな木が印象的な高駅です。

そして、こちらは平子駅。

平子~備後西城間の西城川を渡ります。

備後西城駅です。

ここもかつては急行停車駅でした。
どっしりとした木造駅舎が残る比婆山駅です。

昔、この近くの山で「ヒバゴン」という正体不明の獣が出現したと話題になったことがありました。
味わいのある古い駅名看板が残っています。

この駅名看板は、よく見るとかつての山陽本線のどこかの駅の時刻表に使われていた板を転用したことがわかります。
比婆山駅前で買った地酒は「比婆美人」。

庄原の地酒です。
比婆山~備後落合間の山の中を走ります。

木次線に接続する備後落合駅です。
下り三次行(左)と、上り新見行の列車が並んでいます。

今は、芸備線を直通する列車は1本もなく、必ず、備後落合で乗り換えとなります。
でも、上り列車と下り列車がこの駅で出会うのは、一日1回、14時台だけです。
これは、備後落合駅構内に残る転車台です。

昔、蒸気機関車を方向転換させるために使われていました。
その当時は、貨物列車も走っていたのです。
国鉄時代のこの区間のきっぷです。

この続き、備後落合~新見間(備中神代~新見間は伯備線に直通運転)は、来週ご紹介します。
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- 2022/12/21(水) 00:01:05|
- 中国(山陰山陽)
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今週は北海道の最果ての島、礼文島の秋をご紹介します。
礼文島は、先週ご紹介した利尻島の隣り、稚内~西へ約60キロの日本海上にある南北に約25.8キロの細長い最果ての島です。
島の南部にある香深港です。

稚内や利尻島からのフェリーはこの港に着きます。
香深港から見た利尻富士です。

この日はくっきりときれいに見えました。
港の近くにある礼文町立博物館です。

ここでは島の歴史や産業を知ることができます。
南部、西海岸に桃の形をした桃岩があります。

高さが250メートルもある巨岩です。
その桃岩の下にある桃岩荘です。

かつての鰊番屋がユースホステルになっています。
ここは、知る人ぞ知る有名な宿で、1970年代に大流行した昭和の雰囲気を残す、最後のユースホステルと言われています。
桃岩荘の前に海には猫岩があります。

座った猫の後ろ姿に似ているところから、その名前があります。
凪の朝は、ウニ漁が行なわれます。

6月から9月ごろがウニ漁の季節だそうです。
元地にある地蔵岩です。

これは1977年に撮影した写真ですが、現在は崩落の危険があるので、立ち入り禁止になっています。
さて、ここからは北部の海岸です。
澄海(すかい)岬から見た西上泊の海岸です。

かつて、ここに海中公園ができる候補地になりましたが、実現しませんでした。
9月なのに季節外れのハマナスが一輪だけ咲いていました。

ハマナスは6月から7月にかけて咲く花です。
鄙びた鉄府(てっぷ)の風景です。

あたりに人影はありませんでした。
鉄府の北側に広がるゴロタ浜です。

昆布が流れ着いていました。
ゴロタ岬に向かう丘の上から見下ろしたゴロタ浜と澄海岬です。

最北の海の荒々しい断崖を見ながら歩きます。

これがゴロタ岬です。

ゴロタ岬から眺めるスコトン岬とその沖に浮かぶ無人島、トド島です。

ここが最果てのスコトン岬です。

スコトンからも遠くに利尻富士を眺めることができました。

礼文島を去る船が香深港を離れます。

桟橋で手を振って見送る人たち・・・

さらば礼文島、また来る日まで。
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- 2022/12/14(水) 00:01:51|
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今週は北海道北端の日本海に浮かぶ利尻島の秋をご紹介します。
利尻島は周囲約70キロ、人口約4000人の、ほぼ円形をした島です。
島の真ん中には標高1721メートルの利尻岳がそびえ立ち、その美しい姿は、利尻富士とも呼ばれています。
利尻島の中心地、鴛泊(おしどまり)港に着いたフェリー「ボレアース宗谷」です。

稚内港からフェリーで1時間40分の距離にあります。
鴛泊港を見下ろすペシ岬です。

白い小さな灯台が立っているので灯台山とも呼ばれています。
岬の頂上から鴛泊港を眺めました。

こちらは港の反対側から見たペシ岬です。

波静かな凪の朝でした。
ところが、翌日の朝は、空は晴れていても嵐の朝でした。

この日の夕方のフェリーは欠航になりました。
海岸で昆布漁をする島人の姿がありました。

ご存知、利尻昆布は全国的に有名な高級品です。
利尻岳の麓に建つ利尻山神社です。

利尻岳の登山者が安全祈願に訪れたりします。
静寂に包まれた初秋の姫沼です。

その美しさは最果ての島まで来た疲れを忘れさせてくれます。

けれども、これほど利尻岳がきれいに見える日は、そんなに多くはありません。
鬼脇にある利尻島郷土資料館です。

旧鬼脇村役場を活用した西洋風の歴史的建造物です。
こちらは島の南部にあるオタトマリ沼。

たとえようのない美しさでした。
仙法師御崎公園から眺めた利尻岳です。

このあたりから見る利尻岳が、最も荒々しい表情を見せてくれます。

沓形(くつがた)灯台付近では、ススキの穂が揺れていました。

夕陽が丘展望台から眺めた夕方の鴛泊の町です。

やがて、真っ赤な太陽が沈んでいきました。

沖に見える島影は礼文島です。
これは、利尻島の対岸、北海道の稚咲内(わかさかない)から眺めた利尻島の夕景です。

あまりの美しさに、完全に真っ暗になるまで、時を忘れて見入っていました。
そして、こちらは1977(昭和52)年7月に登った時の利尻岳8合目の山小屋です。

この当時は7月でも頂上付近には万年雪を見ることができました。
今頃、利尻岳は、真っ白に雪化粧していることでしょう。
来週は、利尻島の隣にある礼文島をご紹介します。
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- 2022/12/07(水) 00:01:38|
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今週は、この秋に函館本線(山線)を走った臨時特急「ニセコ号」をご紹介します。
この列車は、北海道新幹線が札幌まで開通する2030年までに廃線が決まった函館本線の長万部(おしゃまんべ)~小樽間を走ります。風光明媚なこの区間には現在は定期の優等列車は走っていませんが、この9月に16往復、11月に2往復の臨時特急「ニセコ号」が走りました。
函館駅で発車を待つ下りの「ニセコ号」です。

ノースレインボーエクスプレスと呼ばれるキハ183系の車両で、1992(平成4)年から道内各地を走っていたリゾート列車ですが、来年3月でこの車両は引退が決まっています。
函館駅の発車は13時52分でした。

朝、札幌を出た上り列車が折り返します。
列車は5両編成で、3~5号車が指定席、1~2号車が自由席でした。

3号車の下部には、ラウンジも設置されています。

函館を出ておよそ25分、仁山~大沼間で左手には雄大な駒ヶ岳を望むことができます。

手前に見えるのは小沼です。
長万部には16分停車します。

ホームでは、長万部町のイメージキャラクター「まんべくん」が出迎えてくれました。

長万部駅の近くでは、この夏の8月8日から、突然、地中から高さ30メートルの水柱が吹き出して、大変な騒ぎになりました。

長万部駅の跨線橋から見えた水柱です。
吹き出した見ずには塩分を含んでいたので、水しぶきによる塩害や、吹き出す際の猛烈な騒音被害が発生していましたが、幸い、9月26日にようやく、止まっているのが確認されたそうです。
さて、こちらは熱郛(ねっぷ)駅を通過する「ニセコ号」です。

そして、こちらは昆布~ニセコ間です。

ニセコ駅で上りの長万部行の普通列車と交換しました。

ニセコ駅から長万部まで行く普通列車は1日5本しかありません。
ニセコ駅では、ワンコ駅長のハーディくんが出迎えてくれました。

なかなか貫禄のある駅長さんでした。
倶知安(くっちゃん)でも6分停車し、ホームで町の特産品を販売していました。

倶知安駅から見る羊蹄山です。

こちらは仁木~余市間の果樹園の中を走る朝の上り列車です。

そして、こちらは塩谷~小樽間です。

下り列車が終着駅の札幌に着いたときには夜になっていました。



「ニセコ号」のキハ183系の車両による秋の運転は11月27日をもって終了しました。
これが山線でのラストランになったかもしれません。
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- 2022/11/30(水) 00:01:54|
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今週は木次線シリーズの第4回目、昭和末期の国鉄木次(きすき)線の様子をご紹介しましょう。
1985(昭和60)年の宍道(しんじ)駅です。

改装はされていますが、今と同じ建物です。
宍道駅のホームで木次線の列車が発車を待っていました。

たらこ色のキハ52に表示された木次線のサボ(行先案内板)です。

これは比較的新しい国鉄時代の木次駅の駅名票。

木次駅構内の車庫は、今も昔もあまり変わっていません。

出雲横田駅に停車中の列車です。

この駅の佇まいは、今も昔も変わっていません。
当時の車窓風景です。

この頃は、まだまだ茅葺き屋根の農家が幾つも見られました。
スイッチバックのある駅、出雲坂根に停車中の急行「ちどり」です。

当時、木次線は山陽と山陰とを結ぶ陽陰連絡線の重責を担っていたのです。
今は駅舎の横に移転しましたが、この当時、延命水はホームにありました。

停車中の列車には米子行、急行ちどりの表示があります。
「ちどり」は広島から芸備線・木次線を経由して米子・鳥取方面へ運転されており、夜行「ちどり」が運転されていた時期もありました。
出雲坂根駅です。

現在は新駅舎に建替えられています。
線路側から見た駅舎です。

いかにもローカル駅という風情が漂っていました。
右側の線路から坂を下りて来て、出雲坂根駅で向きを変えた「ちどり」が左側の線路を通って米子に向けて発車していきました。

そして、終点の備後落合駅に到着した木次線の普通列車です。

当時は、有人駅で、駅弁の立ち売りも行なわれていました。
こちらは、備後落合駅の芸備線のホームです。

この駅は、何度訪れても、昔とまったく変わっていません。

このころは、駅間には旅館や商店があり、客待ちのタクシーも待機していたのです。
国鉄時代の木次線のきっぷです。

当時は、まだ有人駅も多く、硬券きっぷが販売されていました。
JR西日本は木次線を「JR単独では維持できない路線」と発表しましたが、なんとか、いつまでも走り続けてほしいものです。
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- 2022/11/23(水) 00:01:09|
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今週は、前回に引き続き、木次(きすき)線の旅、出雲横田~備後落合間をご紹介します。
出雲横田の次の駅、八川です。

この駅も国鉄時代の面影を色濃く残しています。

手書きの駅名票も渋いですね。

こちらは三段式スイッチバックと延命水で有名な出雲坂根駅です。

スイッチバックの様子を見てみましょう。
備後落合方面から坂を下ってきた宍道行の列車です。

出雲坂根駅に入線します。

この駅で向きを変えて発車しました。

そして、さきほど下ってきた線路を右に見ながら、左側の線路を下って行きます。

こちらは三井野原駅です。

近くにスキー場があり、かつてはスキーヤーで賑わったこともありましたが、今はひっそりとした無人駅。
この先で、島根県から広島県への県境を跨ぎます。
油木(ゆき)~備後落合間の鉄橋を渡ります。

深い山の中、美しい川面に列車の姿が写っています。

この鉄橋を越えると、まもなく終点の備後落合です。

芸備線の線路を左に見て、終着駅の備後落合に到着しました。

1日に1回だけ、木次線の列車と芸備線の上り新見方面、下り日吉方面と産方面の列車が備後落合で出会います。。

これが、備後落合駅。何度来てもその佇まいは変わりません。

でも、今はひっそりとした無人駅。
かつては、駅前に旅館や商店があり、客待ちのタクシーいて、ホームには駅弁屋さんの姿もありました。
けれども、何本もの急行列車や貨物列車が行き来するターミナル駅だったことが嘘のように、静まりかえっています。
多くの列車が行き交う往年の備後落合駅の模型が、駅舎の脇の小屋にひっそりと置かれていました。

来週は、昭和末期の国鉄木次線のようすをご紹介します。
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- 2022/11/16(水) 00:01:45|
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今週は先週ご紹介した「奥出雲おろち号」の走るJR木次線のうち、宍道~出雲横田間をご紹介します。
これは、宍道を出て2駅目の加茂中(かもなか)駅です。

木次線には、このような国鉄時代からの木造駅舎が残されている駅がたくさんあります。
加茂中駅を発車する宍道行の上り列車です。

手前に留置されているのは、MCR-400と呼ばれる除雪車です。
出雲大東~幡谷間を下り列車が渡ります。

こちらは出雲大東駅。

雲南市の特産品などを販売する委託駅です。
そして、木次線の中心駅、木次駅です。

木次線唯一のJRの駅員が勤務する有人駅で、みどりの窓口も設置されています。
木次駅構内には車庫があり、この駅始発の宍道行の上り列車も5本あります。

木次~日登(ひのぼり)間を走ります。

日登駅です。

日登駅は昔の木次線の資料が展示されています。

こちらは下久野駅です。

典型的な昭和のローカル駅の佇まいを残していますね。
下久野~出雲八代間の田園地帯を走ります。

本当にのどかな田舎の風景ですね。
出雲八代駅に出雲横田行の下り列車がやって来ました。

出雲三成駅の売店で買った奥出雲の地酒「仁多米」です。

この駅も特産品販売所になっています。
出雲三成~亀嵩間を走る列車です。

そして、ここは、松本清張の小説『砂の器』で有名になった亀嵩(かめだけ)駅。

駅舎は、出雲そばの蕎麦屋さんになっています。
神社の社殿のような立派な駅舎は出雲横田駅です。

。
この駅止まりの列車が4本あり、この先、備後落合までの列車は1日4本しかありません。
この先、出雲横田~備後落合間は来週、ご紹介します。
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- 2022/11/09(水) 00:00:38|
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今週は、島根県の奥出雲地方の木次(きすき)線を走る観光列車「奥出雲おろち号」をご紹介します。
この列車は、1998(平成10)年に運転を開始した観光用のトロッコ列車です。
毎年4月から11月の週末を中心に、夏休みや紅葉シーズンには毎日運転されています。
通常は、木次から備後落合間、休日には山陰本線の出雲市から宍道(しんじ)経由で備後落合まで一日1往復走ります。
日曜日の朝、出雲市駅で発車を待つ「奥出雲おろち号」です。

宍道から木次線に入ります。

宍道駅では、地元の武者隊「宍道龍湖神」の皆さんの歓迎を受けました。
木次線の中心駅、木次の駅名票です。

大分県の臼杵(うすき)駅にも、同じように「う
♡」という駅名票がありました。
日登(ひのぼり)~下久野間を走ります。

宍道で進行方向が変わり、機関車が一番後ろになりました。
この列車は「押したり引いたり」のプッシュプル運転なのです。
緑に囲まれたトロッコ列車の車内です。

地酒をいっぱい買い込んで、車内では呑み鉄三昧でした。

出雲八代駅でも、地元の皆さんの歓迎を受けます。

亀嵩(かめだけ)に到着しました。

この駅は、松本清張の「砂の器」の舞台になったところです。
この駅では、名物、出雲そばの立ち売り販売があります。

予約しておくと、ホームまで持ってきてくれます。

これが、この日のランチになりました。
出雲坂根駅は、三段式スイッチバックと、自然の湧水「延命水」のあるところです。

列車は出雲坂根駅で向きを変え、再び、機関車が先頭になります。

急な坂を登っていきました。

さらに、ここでもう一度、スイッチバックするのです。

深い山の中の急な坂を、ゆっくり、ゆっくりと登ります。

三井野原~油木(ゆき)間です。

このあたりが島根県と広島県の県境付近です。
油木~備後落合間の山の中です。

本当に深い山の中でした。

もうすぐ、終点です。
終着駅の備後落合に着きました。

芸備線の三次方面と新見方面はお乗り換えです。
でも、次の列車までは、いずれも2時間以上、待たねばなりません。
あたりには、蝶々が飛んでいました。

こんな乗って楽しい「奥出雲おろち号」ですが、車両の老朽化を理由に2023年度を最後に運転を取りやめることが発表されています。今年の運行は11月23日まで。11月中は毎日運転されます。
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- 2022/11/02(水) 00:01:08|
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今週は、西九州新幹線の部分開業とともに、今年9月22日の運行を最後に役目を終えた博多~長崎間の特急「かもめ」の往年の姿をご紹介します。
「かもめ」は、元々、戦後、関西と九州を結ぶ優等列車でしたが、長崎本線が全線電化された1976(昭和51)年から、博多(一部小倉)と長崎を結ぶ特急列車として定着し、大動脈として走り続けました。
しかし、このほど、西九州新幹線の武雄温泉~長崎間の暫定開業に伴い、その名前を新幹線に譲り、運行区間を博多~武雄温泉の「リレーかもめ」として生まれ変わったのです。
さて、こちらは博多駅に入線する「かもめ」です。

この案内表示は、もう見られなくなりました。

博多から鹿児島本線を南下し、福岡県から佐賀県に入ると、鳥栖(とす)に停まります。

ここからは長崎本線を走ります。
吉野ヶ里公園~神崎間です。

吉野ヶ里公園は駅の近くにあります。

佐賀駅に着きました。

こちらは佐賀鍋島氏の居城だった佐賀城です。

中に本丸歴史観という資料館があります。
こちらは長崎本線と佐世保線が分岐する肥前山口駅です。

新幹線の開業と同時に、駅名は河北駅に変更されました。
新幹線に接続する「リレーかもめ」はここから武雄温泉駅まで佐世保線を走ります。
国鉄時代からのこの駅名票は、もう、見ることはできません。

「かもめ」には2種類の電車がありました。

こちらは黒いかもめの787系です。
787系には、このような半個室車両が連結されています。

そして、こちらは白いかもめの885系です。

肥前鹿島に白いかもめが着きました。

新幹線開業後は、長崎行の「かもめ}は廃止され、肥前鹿島行の「かささぎ」という特急が新設されました。
これが肥前鹿島駅です。

これは鹿島にある祐徳稲荷神社です。

京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷と並んで日本三大稲荷のひとつです。
これは、肥前浜宿。

肥前鹿島の隣の肥前浜駅の近くにあります。
有明海を見ながら多良~肥前大浦間を走る黒いかもめです。

そして、白いかもめ。

残念ながら、この絶景区間を走る特急列車はなくなってしまいました。
長崎県に入りました。

長里~湯江間です。
そして、諫早を発車しました。

終点の長崎です。

今は、このホームに並行して左側に見えるホームに新幹線の「かもめ」が停車します。
現在の西九州新幹線は、武雄温泉~長崎間だけの暫定開業です。
新鳥栖を経由して博多まで直通するのはいつになるのでしょうか。佐賀県内のルートが今のところ決まっておらず、全線開通の目処はまったくついていません。
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- 2022/10/26(水) 00:01:30|
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10月25日の朝日新聞朝刊全国版に、私の記事が載りました。

鉄道150年と野球伝来150年とにちなんだ記事で、拙著『プロ野球と鉄道』の内容を凝縮したものです。
また、デジタル版には、より詳しい内容の記事が載っています。
ただ、デジタル版は有料記事ですので、デジタル会員でない場合には最初のさわりの部分しか読むことができません。
https://www.asahi.com/articles/ASQBP5G6HQBKUPQJ00T.html?iref=comtop_Opinion_01もし、全文をお読みになりたい方がいらっしゃれば、メッセージにてご連絡ください。
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- 2022/10/25(火) 11:46:17|
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